「一九八四年[新訳版] 」(ハヤカワepi文庫):ジョージ・オーウェル著, 高橋和久訳
〓 色あせない、過去に書かれた未来 〓
村上春樹の話題の書、「1Q84」を読もうと思い、実際読み始めたのだが、最初のページを読んでいる最中になぜかふとジョージ・オーウェルの「1984年」が気になりだした。書店に行くと、早川書房から新訳本が出版されている。黒い表紙だ。いつも書籍は図書館から借りるばかりの私だが、このときばかりは思わず衝動買いをしてしまった。
最初はこの2冊を平行して読んで行こうともくろんでいたのだ。しかし、それは難儀なことであることに途中で気づく。オーウェルの「1984年」に引き込まれ、一気に読み上げたい焦燥にかられた。文体も含めてふわふわした感じの村上春樹「1Q84」に比べて、オーウェルの「1984年」はストーリーが重くのしかかる感じだ。主人公への感情移入は難しい。この作品の大方は、恐怖と怒りであり、あまり作品に入り込むと、迷路にはまり込んだような不安感を抑えきれなくなる。しかし、この不安がいつか晴れることを期待しつつ、ついつい読み進んでしまうのだ。結局、その期待を求めて、鍾乳洞に迷い込んで出口を探す探険家のようにさまよい歩いただけだった。
この物語の中で「あの本」と呼ばれている禁断の書がある。「寡頭制集産主義の理論と実践」と題するその論文は、人間社会にまつわる現実を、かなりの確立で含んでいるように思う。特に、以下の一文
293ページ
個人の財産や贅沢と言う意味での富は平等に分配され、一方で、権力は相変わらず少数の特権階級が握っているといった社会を想定することはもちろん可能である。しかし、実際問題として、そのような社会が長きにわたって安定を保つことはあり得ない。なぜなら、もし万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める大衆が、読み書きを習得し、自分で考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼等は遅かれ早かれ、少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立し得ないのだ。
「1984年」の舞台となる社会には3つ階級がある。最上位には「ビッグ・ブラザー」、中間層には「党」、そして最下層には「プロール」(プロレタリアートからの略)。そして、主人公のウィンストンは党の「真理省」で働く党員だ。ストーリは単純であり、一言で言えば主人公であるウィンストンが党が行う暴利謀略に対抗し、「プロール」たちの蜂起に期待する。そして、党の上層幹部であるオブライエンにが同じ思想を持っている事に気づき、互いに近づいて党を転覆させる地下活動を開始する。ネタばれになるのでここから先は書かない。キーワードだけを書こう。ストーリーを構成する柱として、「ニュースピーク」と「イングソック」そして「二重思考」が物語の世界には存在する。「ニュースピーク」は思想を統一するための新しい言語。そして統一へ向かう思想を「イングソック」(English Socialism)と言う。本の巻末には付録として「ニュースピークの諸原理」と銘打った解説まで付いている。しかし、ストーリには直接この解説が影響しているわけではない。その意味では、オーウェルはこの原理を本気で考案したのであろうことをうかがわせる。また、二重思考は、具体的な例を挙げるなら、相手を信じていないにもかかわらず、取引の証として「あなたを信じます」と言った類だ。この本の世界では、党員たちは、二重思考(Double Think)により、党の言う真理を真実とし、思考の中から本当の真実を意識的に排除しなければならない。本書ではこんな風に簡潔に説明されている。
329ページ
二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れれる能力をいう。
この本を読み進んでいくと、実際にはソ連ではなく、それは中国の文化大革命の時代に近いことに気づく。頭に浮かんだのは、ユアン・チャンが著した「ワイルド・スワン」。無知と恐怖を国民に植え付け、むしろ平等であるべき無産階級の中に階級闘争という権力の構造を組み込むことで、国を統治し権力を保持したのは、この本の「ビッグ・ブラザー」そのものである。そして、この物語の中で、党員がウィンストンを洗脳するために述べる次の言動は、まさに中国文化大革命の紅衛兵が反動分子(反体制派)に対して自己批判を迫るのに似ている。
385ページ
オブライエンの言動「(略)。党が真実であると考えることは何であれ、絶対に真実なのだ。党の目を通じて見ることによって、はじめて現実を見ることができる。君が学び直さなければならないのはこの点だよ、ウィンストン。それには自己破壊の行為、意志の努力が必要となる。(略)」
そして、実際に紅衛兵たちが自分たちの親さえも密告したのと同様、「1984年」の世界も子供が洗脳され自らの親を密告し、それが正義とされる。しかし、明らかに違っている点もある。それは、この物語の中では「プロール」すなわち一般市民には思想犯罪が問われていない点だ。歴史がうそで塗り固められ、海外との情報を遮断することで、「プロール」たちに無知と貧困を与えたとこまでは同じであるが、階級闘争はこの物語の中には存在しない。その意味では、むしろ現実の文化大革命の方が、より多くの人々を恐怖に貶めたといえるかもしれない。
この本は、ジョージ・オーウェルの最後の著作として、1949年に出版された。作者にとっての未来であった1984年は既に過去となったが、四半世紀を過ぎた現代となっても、作品に映し出される情景に違和感はない。それは、この小説に置かれている愛や戦いや、貧困、などの人間性に起因する不変的な何かが、他のどんな小説よりも際立っているからだと思う。
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