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「資本主義はなぜ自壊したのか」:中谷巌著

  〓 前半は非常によいことを言っているのだが 〓

 Amazonの書評ではけっこうボコボコ、とまでは行かないまでも、批判が多いこの本。批判の多くは、著者がこの本を「懺悔の書」としたことに対するものである。ならば、著者のとった行動に対する批判であり、この本の内容については批判の対象ではないのか。いったいなぜこれほど批判が集中するのかと、最初は不思議に思っていたのだ。しかし、後半を読み進めるにつれて、その理由が見えてくる。なぜか。結論を述べると、前半はアメリカ経済政策に対する評価を中心に述べるのだが、後半になると日本の歴史やら、宗教やらと、とにかく論点がずれてくる。しかも明らかな誤植も多く、拙速をいなめない。これでは、リーマンショックをきっかけに「それ以前から自分の考えは反金融資本主義であった」と言いたいがために書いた本、ととられても仕方がないであろう。376ページという分厚い本ではあるが、第五章(200項目)以降は、著者の歴史観を中心に話が展開され、読むほうははぐらかされた感覚に陥るかもしれない。
 ただ、救いがあるのは、文章が分かりやすく、平易にかかれているため、著者独特の歴史観ととられれば、それはそれで納得できるかもしれない。

 この本の最初の出だしでは、納得させられる部分が多い。例えば、アメリカの格差の根源について語った以下の件は傾聴に値すると思う。

64ページ
階級支配という言葉はきつすぎるとしても、頭の良いものが頭の悪いものを支配し、搾取するのは当然だという思想が、自由競争、マーケット・メカニズムの名の下に正当化されている。

 また、アメリカの金融工学に対して以下のように看破している点も、どこかで同様の記事を読んだ気がするものの、その場では共感せざるを得ない。つまり、市場原理主義は市場において有利な者たちが唱える原理に他ならない、ということだ。

66ページ
つまり、いかに民主主義の世の中であっても、情報は平等ではない。経済学的にいえば、情報に非対称性があって、情報をより多く持つほうがよし大きな利益を上げることができる。この当たり前の事実があるにもかかわらず、マーケットは平等で民主的なルールで運用されているから、「正しい」とされてきた(このことについては後に詳述する)。

そして、著者は以下のような主張を中心として論を展開する。

78ページ
すなわち、世界中でグローバリゼーションが急速に進展していく中で格差が拡大していくのは、「市場の失敗」というより、むしろ、グローバル資本主義そのものに内在している本来的な機能ではないかというのが私の見方である。

 この本は2008年12月に出版されている。自由主義経済や金融資本主義を批判する多くの書籍がこの頃に集中しで出版されていることを考えると、多少奇妙な気がする。うがった見方をするなら、批判の矛先を、最初に述べていた金融業界からグローバリゼーションという現象に向けることで、責任転嫁をしているようにも見える。後半の殆どは、証券や金融業の拝金主義とはまったく関係のないところに論点がおかれ、なぜか文明論的な内容にすりかわってしまう。
 それでも、以下のいくつかの段は、おそらく金融業の方々は隠しておきたい事実ではないか。

99ページ
経済学における最も重要な前提の一つは「完全競争」という考えである。「完全競争」とは以下の四つの条件が同時に満たされている状態のことである。①経済主体の多様性、②財の同質性、③情報の完全性、④企業の参入・退出の自由性。
102ページ
私の友人Aさんの息子さんは、著名な外資系投資銀行に勤めているが、あるとき、Aさんに、その息子さんが「お父さん、素人が株で儲けようなんていうのはもともと無理だよ。だって、我々プロが先に上澄みをすくいとってしまった後を、一般の投資家が分け合っているようなものだからね」と言ったという。
104ページ
現実の市場においては「情報の完全性」など、最初から存在し得ないのである。

 ところが、以下のような、あまりにも自明なことを述べたりもする。この辺が本書が批判される原因になっているのかもしれない。

111ページ
これは推測にすぎないが、おそらく新自由主義の旗を振っていたアメリカのエスタブリッシュメントたちは、最初からグローバル資本主義が人々に対して平等に機能することなどありえないことが分かっていたのだろう。そして、新自由主義的な言説が広まれば広まるほど、自分たちに有利に働くことに気づいていたのではないか。

 経済学者として、このようなことに気づかないほうが問題ではないか。と思ってしまうのは私だけではないであろう。さらに、以下のように徐々に論点がずれていく。ややどうでもよいと思われることが、この辺から論の中心になっていく。

131ページ
ブータン国王が今から三十年も前に「国民総幸福量」という概念を発表した、その先見性には驚かされてしまうが、しかし、数量で測定することが可能なGDPに対して、いったいGNHの尺度となるのは何か。人間の幸福の形を客観的な数値に換算するのはむずかしいし、そもそも「幸福とは何ぞや」という哲学上の解のない大問題が立ちはだかっている。

 さらに、以下の段からは歴史的な議論が展開される。これは、ポランニーの著書『大転換』を紹介し、その説明の後で展開される。

142ページ
ポランニーの諸論を簡単に要約すれば、次のようになる。近代になって登場した市場経済はやがて資本主義経済になっていくが、この資本主義の発展の中で人間は本来、交易の対象としてはいけないものに価格を付け、取引を行うようになった。実はこれこそが市場経済が「悪魔の碾き臼」となって社会の仕組みを歪ませ、最終的には人間性をも破壊してしまう決定的な要素になった。これがポランニーの主張の極めて重要な部分である。

 そしていよいよ、201ページ以降『第五章「一神教思想」はなぜ自然を破壊するのか』からは、明らかに不要な章となる。途中、一神教にからめて蛇の話が出てくるか、まさしくこれは、蛇足である。
 次の247ページ以降『第六章 今こそ、日本の「安全・安心」を世界に』も、読むには値しないと思われる。

 駄目押しとなるのは、以下の論。最近の脳科学により、人間の性質は人種により異なり、日本人はアメリカ人よりも注意深いことが分かっている(この件は「セロトニン」「SS型」でグーグル検索していただきたい)。しかし、著者は以下のように大見得を切ってしまう。

276ページ
そもそも人間の性質が、人種やDNAなどによって大きく変るはずもないことは常識で考えれば分かることである。仮に人間の行動が集団ごとに異なるとすれば、それはそれぞれの集団が刻んできた歴史や伝統の差がもたらすものなのである。

 さらに、これはどうでもよいことかもしれないが、以下のように「年収」を「月収」と間違える誤植がある。

311ページ
月収200万円以下の給与所得者が1000万人を超えているというのは、決して本人の怠慢でも、努力不足でもない。

 現状のアメリカの自由経済、特に金融資本主義と呼ばれる状況が、経済的にも社会学的にも間違った方向であったことは明らかだ。しかし、リーマンショック以前から金融バブルを問題視し、異を唱えてきたのはクルーグマンや一部の経済学者でしかない。
 もしこの本がリーマンショック以前に出版されていたら、まさに懺悔の書として受け入れられていたかもしれない。しかし、それでも、論点はあくまで経済学の範囲から大きく逸脱せずに述べられるべきだったと思う。

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