« アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その14[CashFlow Free] | トップページ | アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その15[Evernote] »

「日本語が亡びるとき」:水村 美苗

〓 日本語のアイデンティティを語るエッセイ? 〓

 少し大げさなタイトルに、心持ひきぎみにこの本を読み始める人も多いであろう。しかし、文章は平易で、ところどころにユーモアがあり、しかも終盤に進むに従い面白さが増してくる。著者の水村氏が五年かけて著しただけのことはある。中盤投げ出しそうになったこともあったが、最後まで読んで読後の満足感は膨らんだ。
 冒頭は著者がIWP(International Writing Program)に招かれた、アメリカのバスの中から始まる。世界各国から集まった文筆家は2台のバスに乗り滞在先へ向かうのであるが、言語の世界情勢を反映して、2台それぞれの乗降者は英語圏と非英語圏の国でまとまってしまう。このような出だしから察して、この本は著者の境涯を日本語に絡めて語ったエッセイかと思った。しかし、実際にはそうでないことを、これから「日本語が滅びるとき」を読む読者にはぜひ知っておいて欲しい。
 私の書籍分類では、この本はエッセイではなく、〈歴史と未来、科学〉に分類されるものだ。著者の思いは、こよなく愛する日本語を滅び行く言語としないために何とか守り抜きたいという強い思いであろう。その思いが要所要所にちりばめられ、そこを一本の柱として自由自在に主張を展開する。おそらく本好きのあらゆる日本人にはお奨めしてよい本であろう。何しろ議論の中心は日本語そのものであるのだから。

 最初にエッセイのように語り口調で綴られた文章は、中盤に進み言語の歴史から展開される。特に日本の書き言葉はかつて漢文が主流であり、明治のころから現代語である日本語に発展したことは、歴史の教科書に載ることもなく、あまり知られていないであろう。かの福沢諭吉などが海外の書物を日本語に訳するに従い、現在の日本語が確立されていった。「演説」「賛成」はどは、そのときに福沢諭吉が創出した日本語であるという。そして、本論はやがて現在の状況へと展開していく。
 「6章 インターネット時代の英語と〈国語〉」では、日本の書籍について〈文学価値〉と〈流通価値〉とう観点から語っている。その上で、「ハリーポッター」のように、読まれるから売れるという商業主義的な文学の流通を危惧している。これは、第6章前半のの〈大図書館〉に関する言及でもあるとおり、より多くの人に読まれる言語だからこそ、より多くの人が読もうとする、言語の寡占化にもつながるとする議論である。
 さらに、〈大図書館〉構想に賛同し、これにより世界中の情報格差がなくなるとする意見に対しては、以下のように述べている。〈大図書館〉とは、Googleなどが図書館の蔵書をスキャニングして電子化し、電子的な図書館として書籍を保存しようとする試みのことだ。最初はビル一棟程度の容積を必要とするが、いずれはiPod程度の大きさなの中に納まるのではないかといわれている。

246ページ
〈大図書館〉が実現しようと、そこには、こと言葉に関しては、背の高い言葉の壁で四方が隔てられた、ばらばらの〈図書館〉が存在するだけである。そして、それらの〈図書館〉のほとんどは、その言葉〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。

 その後のページで、インターネットにより英語の寡占化が進む中、日本語も徐々に英語化が進んでいるとする。さらに、日本人が持つ、日本語に対する劣等感を、例えば百貨店などで増えているローマ字表記(SEIBU、ISETANなど)を例として示した後に、著者は一行でもってこう述べている。

293ページ
「恥ずべきコンプライアンス(=屈従)。」

 確かに、コンプライアンスは辞書で調べると「屈従」や「追従」の意味が強い。まさに日本人と今の日本語の状況にはぴったりである、といわんばかりに、ココに一行で「コンプライアンス」という言葉を持ってきたのは面白い。少しさかしい気もしないではないが、しかし、私自身も「コンプライアンス=法令遵守」であるとばかり思っていたのだ。著者は、私の、このような横文字に対する屈従と日本文学に対する無知が日本語を滅ぼすのだ、といいたいのだろう。
 この本は、多くの読者にとって共感する点が多いのではないか。ただ、この本に対するAmazonの書評はなぜか最近の掲載分ではひとつ星が多い。また、出版初期の書評で五星をつけたものが2回削除されているようだ(08/11/23掲載、09/1/2掲載のもの)。この著書に到底問題がある言論など含まれていないと思うのだが、一部のかたがたには迷惑な箇所もあるのかもしれない。
 Amazonの書評の中には、「村上春樹氏の書物が単なる英語によって書かれた小説の翻訳本に思えてきた」という方や、あるいは「著者が言う言語そのものに秘めれらたなにか(著者はこれを、「別の言葉に置き換えられない〈真理〉」と言っている)は存在せず、あらゆる文章は翻訳可能だ」と論ずる書評もある。そもろも村上春樹氏の小説は、本人によって英語で書かれた後にあるいは同時に翻訳されているから、意図的に日本文学的な部分はそぎ落とされていると思う。それでもやはり村上春樹の文学は文学として成り立つはずだ。そこには文学としての普遍性が濃く存在するからだろう。そしてそのことは、近代文学の巨匠である川端康成の作品とは違う、他国語に翻訳されやすい優位性があるだろう。
 一方、著者の言う「別の言葉に置き換えられない〈真理〉」も、確かに存在すると思う。そのことをこの本を読んで知らされたとき、私は思わずうなってしまった。少々長いが引用する。皆さんはどう感じるであろうか。

197ページ
同じ音をした同じ言葉──それを異なった文字で表すところから生まれる、意味の違いである。

 ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて
 きままなる旅にいでてみん

という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

 仏蘭西へ行きたしと思へども
 仏蘭西はあまりに遠し

に変えてしまうと、朔太郎のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

 フランスへ行きたしと思へども
 フランスはあまりに遠し

となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。
蛇足だが、この詩を口語体にして、

 フランスへ行きたいと思うが
 フランスはあまりに遠い
 せめて新しい背広をきて
 きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。

|

« アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その14[CashFlow Free] | トップページ | アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その15[Evernote] »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「日本語が亡びるとき」:水村 美苗:

« アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その14[CashFlow Free] | トップページ | アイフォニア(iPhoner)には、これがいい!:その15[Evernote] »