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「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」:白石一文

〓 小説という装丁から左45度上方に突き抜ける感じ 〓

 この小説はおそらくミステリーを楽しみたいという人にはミステリー以外の要素が多すぎるために食傷気味になってしまうことが予想される。もちろん、この本を最後まで読み続けることが出来れば、最後は「そういうことだったのか」的な要素を含んでいる。しかし、それをミステリーと呼べるかどうかは微妙なところだ。
 勢いあまって、この本を評するつもりでいた私は、ここでハタと困ってしまった。この本を説明するのは結構骨が折れそうだ。しかし、あえて概観だけを述べるなら、次のようになる。
「ストーリーという鉄骨の枠に、社会問題や、家族の関係、政治の問題、などの部屋を、一人称で区切って語られる、私小説。」
 この本が本来の意味で私小説ではないことは分かるが、著者の白石一文が元文藝春秋の社員であったことを考えると、自分の体験を借りていることは明らかだ。それにしても「この胸に深々と…」は、なんとも形容のしがたい小説なのである。

〓 社会的事実を差し挟むリアルさが存在する

 この小説の主人公「カワバタ」は週刊誌の編集長だ。小説のストーリーを形作る「カワバタ」の言動は架空のものだが、おそらく「カワバタ」が思想を語る部分はおそらく白石一文本人のそれだと思う。そう思うのは、ところどころに実在する人物が実名で出てくるからだ。実在する人物名は「ミルトン・フリードマン」や「鈴木イチロー」など。
 「フリードマン」は、記者がフリーターを取材した記事について議論している場面から「カワバタ」の随想へと展開した時に登場する。格差問題について「カワバタ」の随想を「資本主義と自由」を引用しながら述べる形になっている。また、記者たちが編集会議で、掲載記事に名前を出したスポーツ選手からクレームが出ないかを検討するシーンがある。取材対象のフリーターが、鈴木イチローなどのスポーツ選手がもらう年俸は法外に高額でその一部でも困っている人に分け与えれば、命が助かる人間が数多く存在するが、鈴木イチローはそれをしないだろうと語る部分だ。この語りは小説の中の架空のフリーターであるが、この架空の人物が半ば批判しているのは現存するスポーツ選手なのだ。一種の劇中劇のようになっている。
 どうやら、白石氏が主張したいであろう内容を、主人公に語らせているようだ。そしてその主張が私にとっては非常に共感できるものであったため、ある意味私はこの小説の主人公と同時に著者に共感してしまうのだ。さらに、私の著者への共感が裏切られないことを期待しつつ、白石氏が著した他の本を読んでみようと思ったりもする。
 おそらくこの本は、この主人公に共感するか、しないのか、で評価は大きく分かれるだろう。まして、ミステリーを期待する人には、私小説的な論調が邪魔をして、途中で投げ出しかねない。つまり、この本は小説でありながら同時に啓蒙書であり、そして少しだけミステリーが混ざっているのだ。

〓 村上春樹を意識しているのか、いないのか

 奇妙なリアルさが漂う白石一文の「この胸を深々と…」は、村上春樹の匂いがする。しかし、しかし春樹作品のように無機質ではない。そこは明確に違うのだ。それでも、一つのセンテンスに含まれるリアルさに対して、全体を通して読むと、まるでおとぎ話的な構成になっているという点では、かなり村上春樹的であると思う。
 主人公は癌に侵されていて、再発する恐怖を冷静に受け止めながらも、つまり死を意識しながらも、普通の日常と、普通の感情の中で過ごす。しかし、この設定は、現実的な社会性から少し遠のいて、日常からほんのわずか遠のく体験を主人公に語らせるための布石だ。普通の小説どおり、死というものについて主人公が考えるキッカケを与えるものでもあるが、それがなぜか社会問題や、摩訶不思議な体験に深く結びつくところが面白い。
 これらの主人公の随想は、ストーリーとは少しはなれたところ、といっても必ずストーリーの直線上に交差する形で登場する。おそらくストーリーには不要ではあるが、この小説には欠かせない部分となっている。

〓 主人公の随想部分を抜粋

 殆ど抜粋だけになって申し訳ないが、次のような主人公の語りに共感できそうであれば、その人はこの本を読むべきだと思う。

45ページ
結果、この国はアメリカにとって最大のカモであり忠実な牝牛となり果てたのである。たとえば、アメリカによる対日直接投資の収益率が十四パーセントを超え、日本の対米直接投資の収益率か五パーセントにも満たないのはその見事な証左であろう。

47ページ
企業が大規模な人員整理によって多数の従業員をクビにして社会に放り捨てる。すると証券取引市場は大リストラを歓迎して、その企業の株価を持ち上げる。企業は業績を回復させ、株主配当は増え、株価の上昇で株主たちの財布はふくらむ。一方、解雇された社員たちは短期間、失業保険を受け取ったのちは生活水準の大幅な切り下げを余儀なくされる。そうやって富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなっていく。株主と従業員、この立場の違いによって生まれる格差がこれほど明瞭で不可逆的になってくると、社会の二分化、階層化は避けられなくなっていく。

48ページ
我々の生活に不可欠な種々の製品を作り出す会社よりも、使い勝手のいい検索エンジン一つ発案したにすぎぬ会社の方が利潤を挙げているという現実はやはり間違っている。なぜなら広告主であるメーカーが全部潰れてしまえば検索エンジン会社は一瞬のうちに倒産するが、メーカーの方は検索エンジンが世界中から消え失せても決して倒産しないからだ。そうした本末転倒があらゆる経済分野で起こっているのが現在の世界なのである。

79ページ
ただ、企業の場合は創造性なき者を指導者として仰げば、いずれはその会社は消滅してしまうが、役所の場合はどんな凡庸な者がトップに立っても絶対に潰れない。実は両者のこの決定的な相違が、役所に比べて民間を人材登用の面ではるかに優れた組織にしているのである。倒産の恐れのない組織で働く者たちの組織原理は、民間の原理とは根本的に異なっている。前者がともすれば救いがたい滅点主義に堕するのに対して後者が存亡の危機に貧したとき必ず加点主義を採用することで再生を果たすのは、言ってみれば当たり前のことなのだ。

184ページ
戦争というのは、国家という法人がこのようにして行う「拷問の応酬」だと僕は思っている。
敵の軍事的、経済的、精神的攻撃から愛する人間を守る行為は、尊く美しい正義である──という価値観を僕たちが守り抜く限り、この世界から暴力も拷問も戦争もなくなることはあるまい。

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