« 功利主義者たちの未来 『すばらしい新世界』 ハックスリー著 | トップページ | 指輪を造るということ »

死を選択するということ 『病院で死ぬということ』 山崎章郎著


 本というものは時として人が持つおかしな疑問に答えてくれるものです。私の頭にあったのは、「病院で死ぬということ」がどういうことなのかという、未知の世界への疑問。自分も病院で死ぬのだろうかというある種の恐怖でした。それは、決して自分が望んでいる最後ではない。病院で死ぬというのは、たぶん「良い死に方」ではない。では、どんな風に死んでいくのが良いか。そう考えたときに、この本を読んで目の前の霧が少しだけ晴れた思いがしました。

 そういえば、何年か前に、ある患者の延命治療をやめた咎で、北海道の女性医師が逮捕されたことがありました。本当にこの医師には重い罪があったのでしょうか。この医師に対して罪を問う人々は、その一方にいる患者の幸せをどう捉えているのか。コミュニケーションの取れない患者が、それでも生きながらえることで得る幸せとは何なのかを、問うてみたい気持ちになります。もし、延命治療を続ける事が、患者に苦しみと絶望を与える事でしか無いなら、私にはその事の方が罪深いような気がするのです。

 この本の前半に出てくるガン患者の事例は、ガン治療という医療を飛び越えて、人間の尊厳にかかわる大きな問題です。延命治療がほんとうに正しいのか、本当に人間の幸せに繋がるのか、少なくとも私にはそう考えざるえない、つぶつぶの思いがあります。そのつぶつぶが、この本を読んでいるとざらざらとした感触になり蘇ってくるのでした。それは、次のような文章を目の当たりにした時でした。

15ページ
そして、ある日、彼女の思いはついに爆発した。彼女は医師たちに、「夫の苦痛を長引かせる意味しかないなら、もうこれ以上の治療はやめてもらいたい」と言った。よく人は、“なにものにもかえがたい命”というが、この夫のような状態でもそうなのだろうか。いま夫が人間らしい命を生きているとは、彼女にはとても思えなかった。

31ページ
だから、まぎれもなく、ある種の状況では、臨死患者に対する人工呼吸や心臓マッサージなどの蘇生術は医療者の当然の義務である。だが、この物語のような患者に対する蘇生術は正当なものなのだろうか。この患者のように、もはや医療はなすすべを持たず、だれもが、そして本人すら、その死を当然のものと考えていた末期ガン患者の臨死状態に対する蘇生術はいかなる意味を持つと言えるのだろうか。

31ページ
末期ガンの患者の臨死状態での蘇生術は、それまで、不治の病との戦いに疲れ、ようやく訪れた戦いからの静かな解放のときを強引に妨げ、もはや、何の力も意志もない患者の肉体に、無理やり頑張り続けることを強いるだけにすぎないのだと言える。

32ページ
意味のない行為を、臨死患者に無理強いする──このような状況のなかでの蘇生術は人間の尊厳をおかす行為であるともいえる。だから、もし、自分の最後のときには、「人間としての尊厳に満ちた死を迎えたい」と望む人々に、僕は次のように提案したい。
「自分の死が確実になったときには、“決して意味のない蘇生術はしないで、静かに死なせてくれ”と、必ず家族と医師に伝えておきましょう」と。
 そうしておかなければ、この物語の患者のように、あなたの死はあなたの意志にかかわらず、その最後の瞬間にめちゃくちゃなものになってしまう可能性が高いからである。

68ページ
しかしこのような医療現場は、日本では数えるほどもないだろう。どこの病院も忙しくて、たいていの末期ガン患者は見捨てられているのが普通なのだから。僕はこれからも主張し続けなければならないが、一般の病院は、人が死んでゆくのにはふさわしい場所ではないのだ、ということを読者にも知っていただきたいのである。

86ページ
家族にも医療にもそして社会にも見捨てられ、まるでゴミのように死んでゆく多くの老人たちのことを見たり聞いたりしていると、この国の誇っている豊かさとはなんなのだろうか、とむなしい気持ちに襲われる。このような現実をみる限り、僕はこの国が豊かでいい国だ、なんて誰にも言わせない。そう思う。


 結局は、ずいぶんと長い引用が続いてしまいました。ここには余計な言葉を差し挟む余地が無いと思ったからです。

〓 生命を維持するということ、死を受け入れるということ

 冒頭で述べたように、一冊の本が、疑問に答えつつ次の質問を発するというのは、まれにあることであり、そして、この本の著者である山崎章郎氏自身もそんなきっかけから、医師の生業について深く考え著作を著したのでした。山崎氏は、エリザベス・キュブラー・ロス著「死ぬ瞬間(ON DEATH AND DYING)」を読んだ時の回想を次のように書いています。

96ページ
僕はその一節を読んだあと、しばらくは先に読み進むことができなかった。その一節とは次のようなものであった。
『患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼をよく知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯の葡萄酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、二さじか三さじ液体がのどを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか。

〓 生きるということがどういうことなのか

 生きるということはどういうことなのか。無限に続くと思われる時間の中に、自分の存在の短さを感じた時でなければ、この考えはなかなか浮かびません。むしろそれが幸せなことなのかもしれません。一方、強制的にそのことを考えざるを得ないことを知らされる人々がいました。この本が出版された当時は、まだガンを告知する事は、むしろ罪であるとされていた時代でした。しかし、彼らは、生きるということの締め切り日を告げられても、あわてることなく、自らの人生の意義を考え直すのでした。それは大概、社会の最小単位である家族に吸着し、何かを受け継ぐものとしての家族に、必死に何かを残そうとする姿です。死は次の生を育むべきであるかのように。

151ページ
偽りの希望、それにもとづいた本音の出せぬ会話、人生にとってたいせつな問題を伝えあうことのできぬもどかしさ、疎外されているという孤独感、そして肉体の確実な衰弱によってみずから知る死の到来、そのような悲惨な中でのあきらめ、それとも彼女のように精神的に追い詰められたあげく、真実を伝えよと叫び、それから逃げることなくこたえた僕、そして大きな嵐はあったが、偽りの中ではなく、納得できる真実の中でのあきらめ、すべての人ではないにしても、人生の決着は自分でつけたいと望む人々が確実に存在している以上、僕たちにはそれにこたえる義務があるのだと、彼女を見てて思った。

160ページ
彼女の60年の生涯の大半は決して幸せなものとは言えなかった。だが、その最後の十日間の間に彼女は絶望的な不幸のさなかにあったとしても、みずから納得して生きようとするとき、そしてそれを支えようのする者たちがいるときに、人は悲痛な叫びの中でではなく、ごく自然な流れの中で、ほほえみながらその最後を迎えることが可能であることを、僕たちに示してくれたのであった。

163ページ
彼は家族の誰もが気づかぬほど静かに、五月の明るい朝が始まるころ、窓の隙間からやさしく流れ込んできたさわやかな風に包まれたまま、五十八年間の人生の最後を迎えたのだ。それは本当は家に帰りたかったのに、家族の迷惑になるからと、息苦しいほど殺風景な病室で肩で息をしながら頑張っていた、心優しい彼にふさわしい最後であった気がする。

173ページ
そして、「わかっとよ。入院するよ。先生もたお世話になりますね。でも先生、一つだけ約束してほしい。私はもう長くないことを知っている。だから入院しても、延命のためだけの治療はいっさいしないでもらいたいのです」といった。

188ページ
現代医療は、口からいっさいの食事を摂取しなくとも患者の命を一年、二年と長らえさせることができる高カロリー輸液法を持っている。だが、人間は基本的には口から食べるものなのだ。彼が喜んだのも食べることは生きていることのあかしであり、食べられるということは生き続けられるということのあかしでもあったからだ。


 本書の後半では、癌を克服しようと戦いながらも、敗れ去っていく患者の最後の一片をまざまざと見せ付けてくれます。死は涙を誘うものです。それにしても、眈々と語られる真実から、これほどまでに涙を流すとは、これは決して歳のせいではなく、彼らのいさぎよさに心を打たれたからにほかなりません。
 どんな風に死にたいか、ではなく、時間が限られた最後の人性をどう生きたいかを彼らは考えざるをえなかったのでしょう。病院の中で、無言の叫びを続けながら消えるのではなく、家族と言葉を交わしながら永い眠りにつきたい。気づかぬうちに。
 医療の現場は、生と死を対極に扱おうとしています。しかし、私たちにとって、本当は死は生の一部でしかない。そして私にも死は必ず訪れるということを、もう一度思い出しました。突然とその後の世界に放り出されるのではなく、できる限り人生最後の出口を見据えながら、静かな死を迎えたい。そう思わせてくれる一冊。頭に浮かぶのは、谷川俊太郎の「生きているということ」という詩。そうして、次の言葉が、大きく響いてくるのでした。

「死は生の対極にあるのではなく、その一部として存在する」

|

« 功利主義者たちの未来 『すばらしい新世界』 ハックスリー著 | トップページ | 指輪を造るということ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 死を選択するということ 『病院で死ぬということ』 山崎章郎著:

« 功利主義者たちの未来 『すばらしい新世界』 ハックスリー著 | トップページ | 指輪を造るということ »