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『普通の家族がいちばん怖い』よりもっと怖い『変わる家族変わる食卓』『〈現代家族〉の誕生』 岩村暢子著

 食卓から見た家族論。これらの三冊の本は、いずれも調査企画会社である「アサツー ディ・ケイ」が、食卓調査「食DRIVE」プロジェクトによる調査結果を纏めた本。それぞれの出版は以下の順になっている。

2003年4月『変わる家族変わる食卓』勁草書房(後に中公文庫)14件
2005年6月『〈現代家族〉の誕生』勁草書房 5件
2007年10月『普通の家族がいちばん怖い』新潮社 37件
※件数はAmazonのレビュー件数(2010年12月4日現在)

〓 『普通の家族がいちばん怖い』は一番怖くない

 注目してほしいのは、最後の出版である『普通の家族がいちばん怖い』が大手出版社によるものであり、なおかつ題名がややセンセーショナルであること。内容にしても、最初の2冊はやや学術的であるのに、最後の書籍はゴシップ記事的にかかれているのが特徴だ。Amazonのコメント数が多いのも、本の内容が当事者たち(40代の主婦)を感情的に刺激するからであって、その意味ではまさにマーケティングとして成功した本といえるかもしれない。しかし、あえて言うなら、読む価値としてはおそらく前2作のほうがはるかに高いといえる。
 以前にこのブログで書いた『普通の家族がいちばん怖い』に関する記事は、かなり茶化した内容になっていまったが、実際には、それほど怖い内容ではない。いまどき手作りでなければ栄養バランスが取れなくなる理由は無いし、家族の団欒は正月よりもクリスマスのほうが行いやすいはず。盆と正月に変わって、クリスマスとハローウィンに力を入れるのは、核家族の中ではそのほうが理解しやすいからで、時代の自然な流れにすぎない。
 これら指して、主婦の怠慢と幼稚化を前面に出してしまえば、確かに彼女たちは抗うだろう。でも実際のところは、主婦たちは意外としっかりしており、また昔の主婦に比べれば、今の主婦はよっぽど働いているのではないかと思う。
 どこの家族も、本に書いてある食卓よりややましかなという程度ではないだろうか。「普通」が時代とともに変わることを考えれば、それが一昔前の普通と違ったとしても何の問題も無いはずだ。

〓 『変わる家族 変わる食卓』は問題提起

 一番最初に書かれたこの本では、核家族により極小単位になった家庭の中が、さらに分裂する様相を示している。そして、家族としての一体感を保つためにイベントをつくりながらも、結局ひとりひとりが離合するさまが描かれている。子どもも大人もご主人もすべてフラットな世界では、食べたいものだけでなく、食べたい時間さえも平等の名のもとに自由であるべきなのだ。
 そして食卓の主体となる主婦たちは、気分で料理を決めるという勝手気ままな横暴主婦に見えるが、実のところは、これだけ食文化が発達していて、さらに各自がばらばらに食べたいものを主張するのだから、当人である主婦の「気分」でなければ献立なんて決まるはずがないのである。家庭だけではなく外でも仕事をする主婦であればなおさらのこと、毎日違う献立を考えるだけでも大変なことである。
 著者はこれらを事実として俎上に載せるだけであったが、さすがに最後の章では、彼女たちの思考パターンをデータの中から読み取ろうとする。著者がその特徴として読み取ったパターンは、以下の引用のように、とても怖い内容だった。

163ページ
「私ってそういう人だから」「そんなことはとても無理なことだから」などの前提とされる個人的なモラルやルールを私たちは「マイモラル」「マイルール」などと呼んできたが、その個人的な価値や基準を人にも当然同意されるものとして自分を通してしまうような主婦が増えてきていると思う。そして、それに対して「そうだよねぇ」「わかるぅ」と共有できなければ会話は成立しないし、進まなくなるのである。もし、そこで「私は大変でも毎朝起きて作りますよ」などと言おうものなら、「ええーっ、うっそー。あなたってそういう人なんだぁ」と「会話の成り立たない異星人」のようにみなされて会話も危うくなりかねない。それを共有しあえる人と「無理しない」「頑張らない」関係で成り立ったているのが現代の家族なのかも知れない。
230ページ
これらは、「最悪」を想定して「次善の策」を打つのとは似て非なるものとして、私は「最悪想定、次悪の選択」と呼んでいる。こんな理屈は年を追うほどに増えてきており、この三年間を見ても約三倍に増大している。いずれも、「少しでもやってみる」「できるだけやってみる」ということを拒否している点で共通している。

 この「異質な意見を受け入れない」というのは実に恐ろしいと感じる。なぜならそこには改善とか工夫とか、そういった生活を向上させるための考え方を、「むり」「できない」の一言で全て跳ね除けてしまう力を持っているからだ。無謬性をもつ官僚やお役所がなかなか改善できないのと同質な世界なのかもしれない。
 もっと恐ろしいのは、親として持つべき家庭の工夫や知恵が子どもに伝わらないこと、もっと悪ければ間違った状態で伝わってしまうこと。できなければやらなくてよい、という理屈が通れば、普通の努力すら無意味なる。結果的に社会の最小単位である家庭が向上せずに、かえって退化すれば、社会の衰退を招きかねない。とさえ思ってしまう。

〓 『〈現代家族〉の誕生』は原因究明

 では一体、この自分主義的な思考がどこから来たのかを、著者はこの2冊目の本で明かしてくれる。それは「戦争」もしくは「終戦」であったのだ。敗戦により、突然変わる世界に対して、本来は変わるはずが無いものが変わってしまうことの恐ろしさを、当時の人々は感じたのかもしれない。それまでの国家、社会、そして家族までもが激変したのだった。終戦の時、先生の指示に従い、それまで信じてきた教科書に「墨塗り」をすることは、おそらく世の中に絶対ということはないという意識を、彼らに植え付けたに違いない。当時の学童はこのことに大きな衝撃をうけ、そしてその学童こそが、1960年以降に子を生むことになった親世代なのだ。つまり、前作『変わる家族 変わる食卓』で登場した主婦の親である。
 この親世代が家族を持った時期は、高度経済成長と重なり、さらに世の中は変化を重ねる。食卓には家電製品が入り込み、次から次へと新しい加工食品が発売された。結果的にそれらを受け入れることは、古いものを捨て去ることに他ならない。むしろ親世代は、自身の親たちを否定することで、変わる社会との均衡を保ったのだ。
 驚いたことに、現代の食文化を作ったのは私たちの世代ではない。私たちの親世代であったのだ。そしてこの新しい食文化は、それを子どもに伝えることを困難にする。おそらく彼女らにすれば、新しい料理を学んだそばから子どもにそれを教える余裕などはなかったのだろう。
 さらに、私たちの親世代は、自分たちがその親を否定したように、子どもに対しても何かを押し付けるということをしなくなってしまったのだという。伝えるべきものをなくし、伝えたものが無用になる現実を目の当たりにした親世代にすれば、それは当然の選択といえるのかもしれない。
 つまり、国家という根幹が変わったことをきっかけに、当時の世代が私たちに言い伝えるべきものと理由を全て見失ってしまった。それが私たちの親世代だったのだ。

━ 幻想のおせち料理、食文化

 結局、食卓を変えたのは、私たちの世代ではなく、その親世代であったことをこの本は明かしている。さらに、私たちが想い描いている伝統的なおせち料理とは、親世代の時期にデパートや食品会社が作り出した幻想の料理であったと、この本は明かしている。だから、『普通の家族がいちばん怖い』で著者が問題視していた食卓の退廃や手作りの喪失、伝統料理の断絶などは、時代の断層が起こした現象の表層でしかないのだ。もともと受け継ぐべき家庭の味や伝統料理といったものは、企業によって私たちに刷り込まれた幻想に過ぎない。これらの伝統を断ち切ったのは、私たちの世代ではなく、わたしたちの親の世代だったのである。

━ いちばん怖いのは「家」の空洞化

 そして、一番怖いのは、「家」という単位の中で、後世に伝えるべきものを見失ってしまったままでいる私たちなのではないだろうか。今、私の家族を言い表す言葉は、普通という言葉以外に思いつかない。実際、わが子にこれだけは伝えたいと思うところなど無い。当たり前だが、わが家に「家訓」などないのだ。私が子どもの為に残してあげられるものとはいったい何なのだろうか?
 ふと思い出した。私が高校を卒業するとき父から送られたのは、漢詩を書いた色紙であった。次のような詩が書かれていた。

「児孫の為に美田を買わず」
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕恥甎全
一家遺事人知否
不為児孫買美田

父が私に伝え残したものはこれだった。なんとも皮肉な気がする。

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