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切り口鋭い若者論考 『下流志向』 内田樹著

 本書は、内田樹氏の公演を書き下ろしたもの。それでも本文は読みやすく、話の流れも理解しやすいものとなっています。今の格差社会を別な切り口で読み解きたい方にお勧め。

〓 そうだったのか、日本の格差

 ある時期から、市場経済による競争原理が持ち込まれると同時に、労務にも学習にも競争原理が持ち込まれた。今現在の利益を得るための競争。それが原因で上昇する人は上り詰め、下降する人々は地に落ちる。これが格差の理由になっている。と内田氏はいいます。

〓 今までになかった、想定外の質問

 タイトルは「下流思考」ではなく「下流志向」。このタイトルが表すのは、社会から振り落とされているのではなく、自らが下方へと向かう潮流に乗ってしまう、現代の若者たちの姿です。なぜ若者は、自らを下方へと誘ってしまうのか。その端緒として内田氏が引き合いに出したのは、最近の若者たちが発する「想定外の問」でした。
 その問とは、例えば「なぜ勉強をしなくてはならないのですか?」とか「なぜ人を殺してはいけないのですか?」とか、従来の世代が想定していない根源的な質問をいいます。私たちが想定できない質問をする、新たな世代。ここに現れている明確な世代間のギャップにこそ、現代の格差社会を読み解く鍵が潜んでいます。

〓 学びからの逃走、労働からの逃走

 内田氏は、まず若者の学習意欲が低下している事実を述べます。これを「学びからの逃走」と呼んでいます。なぜ若者は学ぶことをやめてしまったのか。ここからの論説が実に面白く結構納得させられました。短く3段階で述べると、次のようになります。
1.近年の子供達は、生産活動(労役)によってではなく、消費活動によって、最初の社会との関わりをもつようになっている。
2.結果、多くの物事や対人関係において、その場の損得勘定に基づいた判断を行うようになっている。
3.現代の子供達にとって、勉強は労役であり、その対価がすぐに得られないことが、学習意欲を失う原因になっている。
 つまり、現代の子供たちは、学習するという苦役の対価として、「その場で得られる何か自分によいこと」を求めるのです。
 旧世代では勉強することで何か対価を求めることはなく、したがって「なぜ勉強しなければならないか」などといった疑問が思い浮かぶようなことはありませんでした。おそらく私たちの親の世代までは、子どもの頃から労務に狩り出され、そんな中で勉強ができるのはむしろ特権だったのでしょう。内田氏は、「なぜ勉強をしなければならないのか?」と問うこと子どもたちは、労務に駆られて、したくても勉強ができない状態を勘案していないといいます。そしてこれは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問が、自分が殺される側になることを勘案していないのと同じ構造であるといっています。

35ページ
 先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのです。
 しかし、このような問いかけに対して、今の大人たちは、断固として絶句して、そのような問は「ありえない」と斥けることができない。絶句しておろおろするか、子供にもわかるような功利的な動機付けで子供を勉強させようとする。子供たちは、自分たちの差し出した問いが大人を絶句させるか、あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまいます。これはまことに不幸ななことです。というのは、それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまうからです。
 そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後のあらゆることについて、「それが何の役に立つんですか? それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
 こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します。


〓 なぜ家族たちは不快になったのか

 内田氏はさらに議論を発展させ、「クレーマー」「言ったもの勝ち」「等価交換」、といったキーワードから、現代家族の不愉快な関係を説明しています。この説明には私もハッとさせられました。思い当たる節が確かにあります。
 世のサラリーマンたちは、家族が見ていないところで働いている以上、家族から感謝されることは少なくなっていると思います。父親の働きに関係なく、給料は振り込まれるものと勘違いされても仕方がない状態といえます。最初から消費活動がメインである現代の若者は、おそらく直接的な対価を父親に求めるのです。それはおそらくパートナーである妻も同じでしょう。自分も働いているのですから、その面では対等ということであり、夫が家庭内でどれだけ自分のために働いたかを問題にしたがります。
 しかし、外でめいっぱい働いている父親としては、その事を知らしめるために、不機嫌になるか、家庭内では自分の好きなことをする以外ないのでしょう。家族からすれば、それは家族には何も良いことをもたらさない、疫病神の様に見えるのかもしれません。結果的に、妻からすれば、夫は家庭のために何もしない無益な人に見え、逆に夫からすれば、妻は文句しか言わない自分勝手な女に見えるのではないでしょうか。その事を訴えようとして、互いに不機嫌になり、自分の方がより不利益をこうむっていると言い続けるのです。

54ページ
 狩猟者の父親が獣の肉を持ち帰ったように、農耕民の父親が穀物や野菜を持ち帰ったように、現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。
 というわけですから、残る家族もこれに倣うことになります。妻も子どもたちも、それぞれの仕方で家庭を支えているという自負は持っているのですが、それを示す術がありません。したがって、父に負けずに不機嫌になることでその努力をアピールするしかない。


56ページ
 家庭の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。
 これが現代家庭の基本ルールです。
 「不快」のカードを家庭内でいちばんたくさん切れるメンバーが、家庭内におけるリソースの配分や、決定に際しての発言権において優位に立つことができる。ですから、一家全員が「この家庭のメンバーであることから最大の不快、最大の不利益をこうむっているのは誰か?」をめぐる覇権争奪戦に熱中することになります。
 その結果、朝起きてから夜寝るまでのすべての活動について「これを私は不快に感じる」と自己申告する人間がもっとも大量に「貨幣」を蓄財できることになります。そうでなければ、あれほど家族全員か「この家のメンバーであることの不快さ」を必死に競うはずがない。


〓 なぜ若者は働かなくなったのか

 この後に、内田氏は「労働からの逃走」について述べます。ニートが増えたのも、この「労働からの逃走」が原因です。若者たちは「学習からの逃走」と同じ理由で、労働からも逃走するのです。彼らは「なぜ働かなければならないのか?」という問いの答えとして、自分が求めるものが等価交換して得られることを期待します。そして、得られるものが自分の期待に見合わない場合は、仕事をやめてしまうのです。結果、もともと親元で暮らしていることで、必要なものがすべて得られるのであれば、おそらく働くことはしない。これがニートへと若者を駆り立てる原因であるとしています。

143ページ
 労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさです。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、自分の労働に対して、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っているのです。そして、等価交換を原則とした場合、彼らの言っていることはまったく正しいのです。
 彼らに言わせれば、経済合理性というのは要するに「努力と成果(賃金や威信)の相関」です。そして、労働の場ではどう考えても努力と成果が相関していない。彼らにはそう思われる。そして、それは正しいのです。本当にそうなんですから。だから、「そのような不合理なことは私にはできない」と彼らは堂々と主張する。まことに合理的です。これは「学びからの逃走」の場合と同一の理論です。


〓 きっと私たちは

 内田氏は述べることを読んでいて思うのは、これは一部の話であり、また一方的な見解であるということです。最近、私が会社帰りにたまに立ち寄る喫茶店では、必ずと言っていいほど、若い人たちが資格か何かの勉強をしています。語学のレッスンを受けている人もいます。内田氏のいう「下流志向」に陥っている若者はごく一部であり、ほとんどの若者は危機感をもって自己研鑽に励んでいる。私たちの若かりし頃に比べ、今の若者は余程しっかりしている。私にはそう思えてなりません。しかし、もしかすると私には「下流志向」に陥っている若者が目に留まらないだけなのかもしれませんが、それでも向上心をもった人は増えていると思います。むしろそのことを思うと、内田氏が述べる下記の考えは、実にリアルな現実に思えてきます。

84ページ
 まことに逆説的なことですけれど、このリスク社会においける生存競争において有利な位置を占めているのは、僕たちの社会が努力が必ずしも報われないリスク社会であるという基礎的事実に逆らって、依然として努力している人々なのです。
 「努力と成果の相関がもはや信じられない」リスク社会において、それでもなお「努力と成果の相関が信じることのできる」人々が社会的リソースを獲得する可能性が高い。反対に、将来の予測が立たず、努力が水泡に帰す可能性がが高いというリスク社会の実相をリアルに見つめている人々の方がむしろ選択的に社会の下層に降下してゆくことになります。
 まことに奇妙な話なのですが、リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会なのです。


 バブルの頃に、消費に溺れ、生産することの重要性を忘れてしまったのは、私たちではなかったか。そこは極めてリスクの低い世界でした。私たちが過ごしたその一時のツケを、私たちは若者たちに負わせている。
 内田氏は、下流志向に陥る若者たちだけを取り上げて、半ば批判的な立場で述べてているように見えます。しかし私は、私たちが批判的に若者を非難するには値しない。と思います。単純な拝金主義的な生き方から抜け出して、社会とのつながりを大切にしようとしているのはむしろ彼らの方ではないかと思うのです。TwitterやSNSによって、経済活動ではない別な何かでつながって行く若者をみていて、そう思えてくるのでした。
 内田氏が述べる論は、あるところまでは納得できます。しかし、私が違和感を覚えるのは、内田氏は旧世代から見た一方的な意見しか述べていないところです。私たちが現代の若者に残してきたものが、負の遺産でしかないとしたら、若者たちはそれらを破壊することで、新たな遺産を作り出すしかない。おそらく、若者たちは私たちがバブルの頃に持っていたものとは全く異なる価値観で世の中を変えていくのではないでしょうか。それ以外に、新たな希望を生み出す方法はないような気がします。それとも、老人と若者とが同じ希望を見出すことが出来る社会が来るのでしょうか。世代の狭間にある40代が取るべき対応を深く考えさせてくれる一冊でした。

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