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乾いた文章、暖かな大地 『インパラの朝』 中村安希著

〓 副題:ユーラシア・アフリカ大陸684日

 これは旅の記録です。そして書いたのはノンフィクション女流作家。いったいどんな女性なのか、と思ったら、本の裏表紙には写真が載っていました。いかにも聡明そうな目で見返す彼女は、到底ひとりで大陸を旅するとは思えません。それでもこのページの上に綴られた文章の巧みさとは何か一致するものがありました。

 短い文章と、リズム、目に浮かぶ情景が、この本にはあります。旅の記録としてではなく、彼女の目を通した現実が切り取られて、この本のページ張り付いている感じに、思わず私は頭の中で言葉を浮かべてうっとりするのでした。長く続く旅の記録は、そこに居る人々の心の情景で語られていて、染入るように表情が浮かんできます。こういう類の本は、私にとっては初めてで、本を読む行為すら今までとは別な次元のものに思えてくるのでした。
 思わずiPhoneに記録したくなる文章。その断片を、ここにも残しておきます。

48ページ
 子供たちは、都合のいいおもちゃなどではなかった。
 ただの憐れむべき対象でも、ましてや庭の鳩でもなかった。彼らの脆く繊細な心は、ドルの札束を注ぎ込んで満たせるものではなかったし、彼らの未来の運命は、定義不明な『チャンス』の中に託せるものでもないだろう。子供たちは、声には出せない大きな思いと、言葉にできないたくさんの意図を、その小さな体の深いどこかに密かに隠し持っている……そんなふうに感じられた。

108ページ
 とりわけママは嬉しそうにジャムをたくさん私に勧めた。
 私は夜空を見上げながら、カバフサンドを噛みしめていた。星は一つも出ていなかったが、見上げないではいられなかった。空は滲んで膨張し、闇が歪んで流れていった。私は夜空を凝視したまま、涙が去るのをひたすらまった。カバフをまた食べた。別につらくも痛くもないし、特に悲しいわけでもなかった。原因はあの家族にあった。彼らが長年食べ続けてきた、甘くて優しい味のするピンクのジャムのせいだった。


 この本はエッセイではなくドキュメンタリーです。そのことを示すかのように、彼女の思いは少し乾燥していて、日本人と、発展途上国と呼ばれる国の人々の違いを遠い目で語ります。次の引用は、彼女が日本に帰ったときにテレビで見た、イラクでの日本人人質事件に対する想いです。その当時、マスコミは自己責任を声高に叫び、救出のための費用は国民の血税であるという主張がなされたときでした。

116ページ
 私はテレビの前に座って、遠いどこかの国で人が死ぬのをじってと見ていた。そして私はいつの間にか迷惑を被った人になった──血税を収める納税者として、日本国民の一員として。随分とのんきな迷惑だった。


 日本国は、もう国民を守ることを辞めた国家であることがはっきりとしていました。遠い過去に、私自身がそう認識していたことを、この本は思い出せてくれます。三浦和義が逮捕されたときも、中国で日本人が死刑になったときも、日本国は彼らを助けようとはしませんでした。戦時中の様に、日本国民が日本国を守ることはあっても、日本国が日本国民を守ることはない。彼女も旅を通じながらそう感じることがあったのかも知れません。
 彼女の旅の記述には、自分が日本人であることを示すことはなく、無色透明な旅人としての振る舞いしかありません。海外を旅する人間にとって日本国籍がいかに無意味なことであるかを、彼女は知ったようにも思えます。

 アジアやアフリカの貧困国には、この国にはたくさんあるものがない。でも、この国では失われたものが、その国にはたくさん残っている。例えばそれは、同じ場所にいる人々への感謝の共有だったり、単純に湧き上がる奉仕の気持ちだったりするのです。この本からは、こんな現実を知ることができます。
 行間からにじみ出てくるのは、人間が最後に大切にしようとするもの。それは、モノに埋もれた日本人が忘れ去った何かであることを思い出させてくれるのでした。

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