硬派の文壇恋愛小説 『ナニカアル』 桐野夏生著
この不思議な小説を何と説明すればよいだろうか。
物語りは、林芙美子の姪にあたる林房江が黒田に宛てたレターで始まる。林芙美子の手記が見つかったからだった。
その手記に書いている内容は、林芙美子の知られたくない過去だったのかもしれない。どういう理由で書いたのかは分からない。しかもそれは林芙美子のの遺品としてではなく、既に他界した芙美子の夫の部屋から発見された。だとすると、芙美子の夫もその手記を読んでいるはずだ。夫はいったいどんな気持ちでその手記を読んだのか。
芙美子の夫は売れない画家だったが、生前に「自分が描いた絵や一切合財は全て捨てるように」という遺言を残して死んでいる。芙美子の手記は、この遺言に従って処分しようとした絵の裏側から出てきたのだった。
林房江はレターの中で黒田に、「この手記を読んで、手記を公表すべきかそれとも遺言に従って処分するべきかどうかを考えて欲しい」と依頼している。だから、林房江が黒田に宛てたこのレターは、分厚い芙美子直筆の原稿用紙の束と一緒に送られたはずだ。しかし「ナニカアル」の小説中ではそういった描写はない。林房江が黒田に宛てた手紙の文面そのものが、この単行本のページに直接印刷されている。
冒頭のレターのページが終わって、次のページをめくる。すると今度は、林芙美子が書いたとされる手記、つまり林房江が黒田に送ったあの原稿用紙の文面が登場する。黒田がどんな人物かはまだ知らないのだが、この小説の読み手である私はまるで黒田になった気分になるのだった。
この手記には、林芙美子自身がどんな気持ちで小説を描いていたかが書いてある。最初の頃は深い関係にあった毎日新聞とは、途中からうまくいかなくなったようだ。しかし、その後は朝日新聞社と関係を深くしている。また、同時期に文壇にいた作家たちを名指しで批判したりもする。遊軍記者として戦地に赴きながら、軍部から規制があって事実を書けない葛藤も語っている。軍部と新聞社、そして文壇の、戦時下での異様な関係がよく分かる。この事実は公表すべきだ。と、読んでいるとそう思えてくる。
彼女はこの手記で、戦時中では描けなかった数々の想いを綴っているのだ。だから実際にこの手記が書かれたのは戦後のことだ。戦後の彼女のそのときの生活を描きながら、戦時中の出来事を回想して描いている。そして、登場する文壇の殆どは、確かに実名だ。軍部の関係筋や秘密裏に行われていた文壇への監視というのも事実だったに違いない。しかし読んでいると何かおかしいと気づく。そもそも、本当は描きたかったらしい不倫相手との濃い思いを、芙美子はこの手記に書き残す必要があったのか。
そこで私は「ナニカアル」を思い出す。桐野夏生が林芙美子を模倣したのだ。事実が描かれたこの手記は、桐野夏生による贋作だった。
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