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老いと桎梏と僥倖と 『魂萌え!』 桐野夏生著

魂萌え !

 おしまいのページを読み終えた時、電車のドアが閉まるのが見えた。乗り過ごしてしまったのだ。その刹那に、無心になって読み終えたこの小説の余韻を感じながら、私にはまだ時間があるのだと思いなおした。次の駅で折り返して帰ってくる時間がある。少しだけ焦りながらもそう思う事にした。

 普段乗り慣れた西武線の情景には安心感がある。しかし、視点を本のページにおいている間は、最初は不安があり、やがて好奇心に変わる。私もいずれは老いさばらえる。一人で過ごす事になるのだろうか。その前に、子供達はいなくなり、夫婦二人だけの生活になる。その時妻とはどんな会話をすればよいのだろう。当たり前だが、毎日顔を付き合わせる事になるのだ。そしてどちらかが先にボケるか、死ぬ事になる。死ぬ事よりも一人で残る事のほうが怖い。この小説を読むとその事がよくわかる。

 登場する敏子が59歳の時、突然夫が急死する。心臓麻痺だった。物語はそこから始まり、敏子の心の変化を語る。最初は頼りない自分だが、少しずつ新しい自分を発見して行くのだ。そうしながら生きる事への自信をつけて行く。
 敏子役には大竹しのぶがいいな、と勝手に思いながらこの本を読んだ。敏子の頼りなさと可愛らしさが映像で重ねる事ができるかもしれない。
 敏子は夫をなくしたことで、自分の世間知らずを思い知るのだが、家出をして立川のカプセルホテルに泊まる。敏子はそこで本当に小さな事件に巻き込まれながら、もっと強く生きようと思い至った。

 そういう主人公の心の変化がこの小説ではありありと読み取れるのだ。桐野夏生は文章がうまいのだろうと思う。いや本当に。当たり前だが、絶対に自分にはこんな文章は書けないと思った。人の思いや心の変化を文章で表現する技量というのは、多分通常の人には簡単に手に入れる事ができない何かだと思う。なにしろ途中で自分が主人公の視点で小説の中のそこにいるのだ。読んでいるというよりは、体験しているといったほうが近い。小説の舞台が、吉祥寺や大泉学園といった自分の生活圏に近い事もあったかもしれないが、それでも小説の中にこんなにいとも簡単に入り込めたのは今までなかったような気がする。

 あれ、いまネットで調べたら映画化されていたのですね。主演は風吹ジュンらしい。大竹しのぶじゃなかったのね。残念です。

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