日常の中にある希望の断片 『対岸の彼女』 角田光代著
直木賞受賞作、だから読んだというわけでもないのだが、それでもすこぶる面白い。
主な登場人物は3人。対岸にいるのだから、それぞれ一人ずつだと思いきや、それは構成によってうまく3人にまとめられている。
最初に登場するのは、小夜子という主婦が公園デビューに悩む場面。娘は砂場での友達作りがなかなか進まない。そして、彼女自身もなぜか母親同士の連帯になじめない。そんなときふとパートで働くことを思い立ち、面接をして葵という女社長に出会う。彼女は実は同じ大学に、同じ時期に通っていた。お互いにそのことを知って二人は意気投合する。小夜子は葵といういう同じ年かさの、しかし違う人種と付き合う中で、自分の新しい一面を発見して行く。
そして、話の主人公は次の章で切り替わる。葵と小夜子が織り成す現在の場面から、章を隔てて葵だけの過去のストリーが彼女の回想として挿入される。実は葵は暗い過去を持っている。それは、葵の高校時代の話。そこに登場するのはナナコという小柄な同級生だった。葵はナナコとの二人だけの秘密の場所で話したことをよく思い出す。その秘密の場所というのが川岸なのだ。そして二人は虐めに悩みながらも、決して壊されることのない大切な何かを探しはじめるのだった。
この小説は、社会人になってから仕事を通じて保たなければならない微妙な距離感と、学生時代の友人同士が持つことができた密な距離感を、葵の現在と過去の姿に、小夜子とナナコという二人の人物を登場させることによってうまく表現している。
以前私は、Podcastの番組「ラジオ版 学問ノススメ」に角田光代さんが出演したのを聞いたことがある。話し振りからは、飄々としていて物腰柔らかい印象。意外なことに、自分が書く登場人物にあまり感情移入をしないという。そして、自分で登場させている人物のことは、大概嫌いだという。読者が感情移入できるように小説を書くというのは、やはり職人芸的な作業なのかもしれない。
角田光代氏は、かつて自分が書く小説が売れなかった時期に、尊敬する編集者から
「あなたの作品には希望がない、多くの人に読まれたいと思ったら小説の中に希望を書きなさい」
と言われたことがあるそうだ。そう言われてしばらくたってから、作品の中に「希望」というものを少しだけ注入したのが『対岸の彼女』だったという。『対岸の彼女』以前の角田光代作品は、それ以降の作品とは違っていて、厭世的な作品ばかりだったらしい。小説の中に「希望」をすこしふりかけるだけでそんなにも違うものなのだろうかとふと思った。いつか『対岸の彼女』以前の作品も、読んでみたい気がする。
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