無色透明な深みに触れる 『補陀落渡海記』 井上靖著
私は井上靖という作家の小説が好きである。どこがどうといわれても分からないので、これは一種のインプリンティング(刷り込み)のようなものに違いない。
私が中学生のころ、自分の手で初めて買った小説が井上ひさしの「ブンとフン」だった。ストーリーは忘れてしまったし、そもそもストーリー性のない小説だったように思う。それでもその時は、子供心に面白かったので、また同じ作家の本を買おうと思って、こんどは井上靖の「しろばんば」買ったのだった。名前を見ずに、同じ井上さんの作品と期待してその本を読みながら、以前とはまったく違う内容だったので随分と驚いたのを覚えている。しかし、同一人物の作品だと思って買った2冊の本が、まったく違う作家のものだと知ったのは、「しろばんば」を中頃まで読み進んだ後だった。それでも「しろばんば」は面白かった。それ以降、私は井上靖の作品は面白いと思い続けてきた。年に数冊しか本を読まないその頃の私にとっては、それくらいしか選択肢がない、狭い読書だったのだ。
それから数十年が過ぎて、今では井上靖の作品はめったに手にすることができなくなった。新作ばかりが並ぶ書店には、井上靖の作品を置くスペースが書架にないらしい。おそらく氏が書いた膨大な著書のなかには既に流通していない作品のほうが多いに違いない。
そんな時にひょんなことから、この短編集があることを知って、さっそく図書館から借りてみた。井上靖の文章は透き通るようで、癖といったものを感じさせないところがよい。それは、小説をそれほど多読していない私でも感じることができる、ごく一般的な嗜好性なのだと思う。
この短編集には、全部で9編が収録されている。その編纂にかかわったと思われる曽根博義氏が、あとがきで井上作品について解説している。
「井上靖はすぐれた長篇作家であると同時に短篇の名手でもある」という出だしで始まるその解説は、井上氏の40代から60歳代に書かれた短篇の中から、主に老いと死について書かれた作品を選び出したと教えている。解説の記事の中でも特に興味を引くのは、この短編集にも掲載されている「姨捨」を井上氏が書いた同時期に、深沢七郎が「楢山節考」を書いていることだ。「楢山節考」は当時の文壇の話題をさらってしまったらしい。井上靖自身がそのことについて語った文章が、この解説の中に掲載されている。それによると、井上靖にとっても「楢山節考」から受けた衝撃は相当のものだったという。まるで素直な敗北宣言のような文章である。
こんな風に記事を書くと、いかにも私が井上靖の小説の殆どを読み終えたかのごとく思えてくるのだが、実はそうでもない。他の小説家の本に比べれば多少は多く読んでいる程度でしかない。そんな中途半端な井上靖小説ファンの私でも、この短編集を読むことで少しく井上氏を深く知ったような気にさせてくれる。井上靖の小説、ではなく、井上靖氏本人を魅了させる一冊として読むことができた。
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