不気味な谷間 『廃用身』 久坂部羊著
ロボット工学には「不気味の谷」という言葉がある。つまりこれは、ロボットがより人間に近くなり、見分けがつかなくなる直前のちょっとした不自然な挙動が、かえって人々に不気味を感じさせる現象のことを言う。確かにASIMOのような完全なロボットは動作が多少不自然でも不気味には感じない。しかし、大阪大学の石黒研究室などで開発されるアンドロイドでは、見た目が人間に近いだけに、動作が少し不自然なだけで不気味に感じるのだ。石黒教授もその辺は良くわかっていて、人間により近い動作になるように苦心しておられるようだ。
この不気味の谷現象はロボットやゲームのキャラクターなどで起きる現象だと思っていた。それがこの『廃用身』という小説で覆される。小説の中に登場する、手足が切断された老人を目の当たりにすると、まさにこの不気味の谷に陥ってしまうだろう。しかし、私が感じた不気味の谷はそういうことではない。
小説そのものがリアルでありながら、わずかに不自然なのだ。いや、小説であるからフィクションであることが判っている。しかし、この小説の巧妙な構成が、まるでそれが真実であるような錯覚を起こさせるのである。それは、石黒教授が造るアンドロイドを見たとき、それがロボットであり生身の人体ではないことが分かっていながら、人間と寸分たがわぬ自然な動作を見せることを期待するに等しい。それを裏切られたときに、私たちは不気味の谷に陥る。
この本の冒頭は「まえがき」から始まる。この「まえがき」はこの本の著者である漆原糾(うるしばらただす)が書いたものだ。そして、つづく第1章から第9章までが著者による論文となっている。漆原氏が執筆した最初の原稿がそのまま掲載されているのだ。
廃用身とは、つまり脳障害などで動かすことができなくなくなった体の一部をさす。この原稿には、老人の廃用身を切断する「Aケア」と呼ばれる治療?を行うまでの経緯が細かく書かれている。最初は読んでいるほうも、それが到底正気の沙汰とは思えないのだが、原稿を読んでいるうちに、妙に納得してしまうのである。そして、現実的にどこかでそのような治療が行われているのではないかと錯覚していしまうのだ。
中盤以降は、この架空の原稿を出版しようとした、編集者である矢倉俊太郎氏のルポルタージュが掲載されている。矢倉氏がなぜ漆原氏の「Aケア」と呼ばれる新しい老人ケアに注目したか、そして、なぜ漆原氏の原稿を出版できなかったを綴っている。このルポルタージュにより、読者はさらに衝撃を受けることになる。そうして、老人介護について、介護を受ける側と介護する側のかかわり方の難しさ、つまり、互いに共倒れしないための方策の難しさを、否が応でも考えさせられる。とくに、今の若者が老人になったとき、そのときの社会の担い手がはたして老人をきちんと介護するかどうかが疑問に思えるというのは、大きな衝撃となってこだました。世代間格差についての本を何冊か読み、その問題点に気づいているつもりになっていた私にとっては、これは全くの盲点だったのである。
さて、老人介護の問題は現在でも尾を引いている。そして、ロボットはより人間に近くなり、将来は介護ロボットも実現しそうである。この小説では介護ロボットについては一切触れられていない。それは非現実的ととられてられているのだろう。しかし、老人の手足を切断するという「Aケア」と掛け合わせるなら、実際には老人たちの手足はロボットアームに置き換えられているかもしれない。そこには、別な形での不気味の谷が待ち受けているのではないだろうか。
実は私は、この本の読後に、全く違った方向に思いを馳せてしまった。老人介護の問題は、介護ロボットが解決してくれるのではないか。この本に書いてあるような、不気味な出来事は起きないのではないか。
しかし、私の考えはさらに飛躍する。ロボットによる介護の現場は、やはり不気味なのである。老人たちは、ロボットにあやされ、世話され、そしてロボットに対して安楽死を要求する老人が登場する。やがてロボットたちは、老人たちが望む安楽死を理解してしまうのだ。道徳を理解できないロボットの、功利主義に基づく判断が、老人たちを少しずつ、そして密やかに老人たちを殺していく。
そして、最後に、ロボットがとった異常な行動は、実はロボットの設計者であるある人物によって、あらかじめロボットに組み込まれていた行動パターンであった。という落ちである。
だれか、そんな小説を書いてはくれないだろうか。
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