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死に時をわきまえよう 『日本人の死に時』 久坂部羊著

日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書)

〓 本当の死はもっと身近にあるもの

 私たちの周りには死の影が常につきまとっていす。それを身近に感じないのは錯覚にすぎません。死は生の対極にあるのではなく、その一部として存在しているのです。あなたが、そして私が明日も生きている保証などどこにもありません。そして、高齢になったときは、死は確実に現実に近づきます。長生きしたい、あるいは長生きして欲しいという思いは、いつかは裏切られることを前提としているのです。
 過度に長生きをしたい、という思いは人間の欲望の現れです。際限のない金銭的な、または物質的な欲望がやがて不幸を招くように、長生きしたいという欲望も、やがて不幸を招くことになると、著者は警鐘を鳴らしています。

123ページ
 これこら老いていく人は、元気に生きることばかりを考えて、その先のことを意識していないのではないでしょうか。長生きしてからどう死ぬかを考えても、遅い気がします。だから、もし長生きを望むのなら、そのあとどう死ぬかまでしっかりイメージしておいたほうがいい。

〓 健康寿命と平均寿命

 なぜ著者は、長生きをした後に、どう死ぬかをイメージしておいたほうが言いといっているのでしょうか。著者は、健康寿命という概念を持ち出します。これは介護を受けることなく生活できる年齢のことを言っています。そして、この健康寿命を越えて生きているということは、実は現代医療によって無理に寿命を延ばされている状態であるとしています。

183ページ
 病院へ行って、無理に命を延ばすから、平均寿命が延びる。だが健康寿命との差が広がり、介護の需要が高まる。医療が延ばす命は、点滴やチューブ栄養、人工呼吸やさまざまな薬剤によるものです。そうやって延ばされた命は、決してよいものではありません(私が言っているのは、健康な時間を十分に過ごしたあと、老いて身体が弱った人の話です。若くして事故や難病に倒れ、医療の支えで生きている人はもちろん別です)。
 老いて身体の不具合が出てから、無理やり命を延ばされても、本人も苦しいだけでしょう。そこで私は、ある年齢以上の人には病院へ行かないという選択肢を、提案しようと思います。

 この文章だけを読むと、「老人に早く死ねと言っているのか!」と憤慨する方もいらっしゃるやもしれませんね。残念ながらその通りです。老人になったら、病院で延命治療など受けずに、自然死しなさい、といっているのです。病院は命を守るための機関です。できるだけ命を引き伸ばそうとします。それが時として、本人の意思に関わりなく成されるのです。自分が死にたいと思っても死ねなくなってしまうのです。そうなる前に、自然な死に方を選ぶべきなのです。
 著者は何年も老人医療に携わってきた方です。どんな人も、老人になるというのは初めての体験のはずです。そこで「こんなはずじゃなかった」と後から思い至ることに危惧を寄せているのです。

〓 老人ホームでの孤独死の話

 今年の3月末に、つくばの老人ホームで87歳の女性の孤独死がニュースになりました。
新聞では、老人ホームの管理不徹底を問題視する記事が目立っています。しかし、もし死の間際にこの老人が発見されたらどうなっていたのでしょうか。87歳にして、病院に運ばれ、そして手術が行われて体にチューブが挿入されて、生命が維持される。これは社会的には当然の措置としてニュースにならないかもしれません。
 しかし、この本から見えるその姿は、最後の最後に痛みが与えられるという不幸な姿に見えます。この女性の死因は心筋梗塞とのことです。心臓が苦しくなってそのまま死に至るのと、毎日死の床について、吸引の苦しみを味わいながら死を待ち続けるのとではどちらが幸せなのでしょうか。もちろん、もとの健康な体に戻る場合もあるかもしれません。しかし、87歳であれば、元の生活にもどるのは難しいだろうし、よしんばそうだとしても、いつまた発作を起こすかもしれないという恐怖に駆られながらの生活になるのではないでしょうか。

 そう考えると、やはり今の社会制度に基づく老人の死の迎え方というのは、正しい姿とは思えません。この本の中でも述べられているように、自然死というのが最も真っ当な死に方に思えてきます。

 先の孤独死をした老人は、個室に住み、自力で生活していたと言います。だからこそ、だれも声をかけることがなかったのでしょう。今となっては調べようがありませんが、本人としては、病院に入らずに死に至ることを望んでいたのではないでしょうか。

〓 自然死を選択するにはどうすればよいのか

 この本が推奨するのは、老人になったら、病院に行かずに自然死を迎えることです。ある程度の年齢に達したら、死をどのように迎えるかを考えて準備しておくべきだと言います。そして、そのことが、実は難しいことであることも、述べています。また、現在の日本において自然死を迎えることの難しさは、『死支度』という小説にも書き表されています。

 今のように医療が発達する以前、昭和初期以前には、殆どが自宅での死を迎えていました。そして、1960年ごろから病院での死が増えて、いまは8割が病院での死です。そろそろ私たちは、死を迎える側の考え方を変える必要があります。老衰による死がどういうものかもあらかじめ知っておく必要があります。つまり、死支度をしておくことです。
 しかし、今の日本人は、高度な医療によって、死を選択する権利を失ってしまったのかもしれません。日本人の死に時を、私たちは取り戻さなければなりません。著者はそういっているのだと思います。

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