科学的空想と現実的検証の世界 『虐殺器官』 伊藤計劃
SFはサイエンスフィクション。近未来小説やファンタジーも含む小説の一大分野だ。当然、池井戸潤が書く「社会派小説」や、角田光代が書く「家族主義小説」とは、小説の読み方が異なる。「社会派小説」は批判的に、「家族主義小説」は共感的に、そして「SF小説」は科学的に読むのがいい。
科学的に読むとはどういうことか。つねにそれと現実を照らし合わせて、ありうるかどうかを検証しながら読むということ。たとえば、この小説でも冒頭には航空機からポッドと呼ばれる棺おけのような装置に乗って、戦闘員が地上に落下するシーンがある。果たして可能か? と考えてしまう。また、リンクという機能を使って口パクだけで仲間と直接対話する。他人に声を聞かれることはない。これは可能か?。
可能であると同時に合理的にそれらの未来機能が使われていなければならない。このリンクは、声を発せずに会話できる機能だから、敵地に潜入するときは大いに役立つだろう。そう思わせながら、敵がいる場所で普通に会話をしているシーンが登場したりすると、読んでいるほうとしては興ざめしてしまうわけだ。
おおむねこの小説は論理的であり、科学的な検証も十分成されているように思える。
SF小説としてはまともだ。しかし、この小説の読むべきポイントはそこではない。むしろ、現実世界における矛盾をつつき、疑問を投げかけているのだ。つまり、読者がこの小説のストーリーを検証しようとする前に、読者に対して「あなたの住んでいる世界はこんなに矛盾に満ちているのです」と突きつけられているようなものである。そこがSFとしてこの小説の新しいところかもしれない。
9.11が世界中の生活を変えた。テロの脅威と過剰なセキュリティ。コソボ、ルワンダなどの紛争はなぜなくならないのか。ビクトリア湖の外来種による汚染。忘れかけた核の脅威。そして、過剰に発達した医療による延命治療。そこにある、あらゆる矛盾にまみれた言葉の問題が、この小説中では浮き彫りになる。テロは聖戦であり、紛争は革命であり、外来種は改良であり、核は抑止力による平和であり、そして延命治療は死との戦いである。
私たちが社会に起こる現象を言葉で表すときに、その選択の中で現実を覆い隠し見たいものだけを見ることができる。古代ローマのカエサルが言ったのは、人は都合の良い現実は見るが、都合の悪い現実を見ようとしない。ということだったか。伊藤氏の『虐殺器官』は、地球上に存在するこの不都合な現実を、いともたやすく暴きだし、そしてデフォルメして私たちに伝えてくれるのだ。ストーリはもちろん、SFの領域を超えて、私たちに訴えかけるものがある。
エンターテインメントとしてのSFではない、この小説にはもっと深いものがあると思う。たとえば、ルツィア・シュクロウプと主人公の会話を見てほしい。
122ページ
「実際にはね、ヒトの現実認識とはあまり関係がないの。どこにいたって、どこに育ったって、現実は言語に規定されてしまうほどあやふやではない。思考は言語に先行するのよ」
123ページ
「アインシュタインは、イメージが浮かぶと、はっきり語っているわ。天才的な科学者の多くが同じことを言っている。頭のなかでイメージとして想定し、その映像をいろいろ捏ね繰り回したあとで、最後に数式として『出力』するのよ」
(…中略…)
「ではあなたは、ことばをどんなものとして見ているのですか。人間の現実を規定するものではないとしたら、ことばにどんな意味があるんですか」
「もちろん、コミュニケーションのツール。いいえ、違うわね……器官、と呼ぶべきかしら」
実は私も思考は言葉で構成されていると思っていた。しかし、よく考えてみたら、速読では文章をダイレクトにイメージに変換することで実現すとされる。私は、この小説を読みながら言葉をイメージに変換している。この結果が思考なのだろうか。それとも、文字を読んでからイメージに変換するプロセスが思考なのだろうか。私は、言葉を使わなくても、この小説に登場したシーンをイメージとして思い浮かべることができる。そして、それを言葉に置きなおすことも可能だ。どちらが思考と呼べるのかは定かではない。しかし、言葉がなくとも、確かにイメージはできるのである。
こんな風に、この小説はいちいち思考を要求するのだ。小説の中で科学検証が行われ、それが読者に問いかけられる。これからこの本を読もうと思っている皆さんへ──科学的空想と現実的検証の世界へようこそ。
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