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シリーズ戦前昭和(その4) 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子著

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

 第4回目に紹介する本は、いままで紹介してきた論文形式の本とは違い、高校生への講義を文章に起こしたものです。ですから、非常に読みやすい。
 講義は歴史的にわかっている事実を示し、なぜ当時の人物がそう判断したのか、あるいはそのような行動を起こさなければならなかったかを、生徒に問いかけながら進んでいきます。要するに、記憶する講義ではなく、考えるためのディスカッション形式の講義で進んでいきます。生徒の回答とその回答に対する加藤氏の受け答えがいくつかの場面で登場し、会場の臨場感がそのまま伝わってきます。
 内容については、軍事的な事柄が中心となります。それと国内の政治的背景、関連する世界情勢を引き合いに出しながら、その関係性を示しています。

政治**
軍事***
経済**
社会**
文化*
生活*

この本に対する他の書評ブログ記事のリンクを掲載します(記事著者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます)。

404 Blog Not Found:2009年8月15日の記事

紙屋研究所:2009年11月23日の記事

H-Yamaguchi.net:2011年1月4日の記事

さてと、今までどおりこの後は引用とその引用部分に対する感想を述べます。

 

〓 政治的無策を軍隊が見逃さず、そして戦争へ突入

■286ページ
 このずれを一挙に突破して、国民の不満に最後に火をつける役割を果たしたのが、1929年10月、ニューヨークの株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌でしょう。農林省の農家経済調査によれば、農家の年平均所得は、29年に1326円あったものが、31年には、なんと650円へと半分以下に減ってしまっていました。
 この時期は世界的な恐慌でしたから、日本が協調外交方針をとっていたために、農家所得が減ったというわけではないのです。しかし、たとえば31年7月、松岡洋右が政友会本部で演説し、当時の若槻礼次郎内閣下の幣原外交を批判していたように、今日の外交は国際的な事務的な交渉はやっているが、「国民の生活すなわち経済問題を基調とし、我が国民の生きんとするゆえんの大方針を立て、これを遂行する」ことが第一であるのに、それをやっていないではないか、との批判は、生活苦に陥った国民には、よく受け入れられたと思います。そのような瞬間を軍が見逃すはずがないですね。こうして、31年9月18日、着火点に火がつけられることになりました。

◆「着火点に火がつけられる」とは、満州事変の始まりのことを言っています。満州事変の発端は、関東軍の暴走によるものであるというのが一般論になっていますが、加藤氏の講義によると、きわめて冷静な対応のようにもみえます。
 なぜ軍の暴走を政府が止めることができなかったか、そのあたりがよくわかる説明になっています。つまり、満州国を立てる大義名分が国民生活を守るためであるという、外交上の解決策として説明しやすくなったのではないでしょうか。

〓 太平洋戦争は計画的であるが無謀という矛盾を孕んでいた

■366ページ
 この点を考えるには、軍部が、三七年七月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実能を見なければなりません。同年九月、近衛内閣は帝国議会に、特別会計で「臨時軍事費」を計上します。特別会計というのは、戦争が始まりました、と政府が認定してから(これを開戦といいます)戦争が終わるまで(これは普通、講和条約の締結日で区切ります)を一会計年度とする会計制度です。
 三七年に始まった日中戦争からの特別会計が帝国議会で報告されるのは、なんとなんと四五年十一月でした。太平洋戦争が終結した後、ようやく日中戦争から太平洋戦までの特別会計の決算が報告されるという異常な事態です。軍部とすれば、日清戦争や日露戦争の頃と違って、政党の反対などを考えなくて済みますから、こんないい制度はないですね。日中戦争を始めて、蒋介石相手に全力で戦うこともしていたけれども、裏で、太平洋戦争向けの軍需への対応を準備できるようにしておく。
 一橋大学の吉田裕先生の研究によれば、1940年の1年分を例にとってどれだけが日中戦争に使われ、どれだけが太平洋戦争への準備として使われたかといえば、なんと三割しか日中戦争に使われていない。残りの七割は、海軍は英米との戦いのために、陸軍はソ連との戦争を準備するために使っている。太平洋戦争が実際に41年末に始まるまで、すでに使われていた臨時軍事費の総額は256億でした。現在の貨幣価値に換算するには、800倍すればよいといわれていますから、換算してみると、20兆4800億円ですか。
 当時、軍の内部にいた人間も、これはおかしいなと気づいていたようです。海軍省の調査課というところで、海軍の帝国議会対策にあたっていた高木惣吉という軍人の日記には、37年8月3日の記事として「我々部内の者も何のためにそれほどの経費を要するや、主義として諒解し得ざる点あり」と書かれています。つまり日本側は、表向きは日中戦争ですよ、といいながら、太平洋戦争に向けて、必死に軍需品を貯めていたことになる。よって、戦いの最初の場面で、いまだ準備の整っていないアメリカと不意打ちにして勝利をおさめれば、そのまま勝てるかもしれないとの考えが浮かぶ。

◆当時の軍部も、ある程度将来を見据えていたという話がここで登場します。問題の一つは、それが正しい判断ではなかった可能性があるということ。そしてもう一つは、もし仮にその判断が間違っていた場合の責任逃れをするために、隠しながら計画を進めることができたということではないでしょうか。
 こういった、軍事費の取り回しについてはあまり他の本では取り上げられていないかもしれません。少なくともこれまでに読んだ本の中では登場しませんでした。

〓 短絡的な議論の進め方だった

■382ページ
 この水野の論は、徹底しているという点で中国の胡適の論に相当するかもしれません。中国の国土の何割か、海岸の大部分が封鎖されて初めて、米ソを戦争に巻き込めるとの胡適の議論と似ている。水野の議論も、日本は戦争をする資格がない、こうくるわけです。しかし、水野の議論は弾圧されます。また国民もこのような議論を真剣に受け止めない。すぐに別のところへ議論が飛んでしまうのです。つまり、持久戦はできない、ならば地政学的にソ連を挟撃しようか、あるいはいかに先制攻撃を行うか、といった二者択一となってしまう。

◆これは今の日本の消費増税の議論に似ていると思います。消費税を導入するのかしないのかという二者択一となっています。本来は、まず最初に、増税が本当に必要かどうかを議論すべきところなのでしょう。増税以外の方策はないのか。そもそも増税による財源を何に使うのか、そのためにいくら必要なのかも議論しないまま、なけなし的に突き進むのは、あの頃と変わらないのかもしれません。

〓 戦争の最後の1年半で90%が戦死した

■383ページ
 先ほど名前を挙げた吉田裕先生の『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)という本に、とても興味ぶかい表が掲げられています。岩手県一県分の陸海軍の戦死者の推移です(…中略…)。太平洋戦争開戦から45年の敗戦まで、岩手県全体で3万724人が亡くなっている。そのうち、44年以降の戦死者が全体の87.6%を占めているんですね。戦争の最後の1年半で戦死者の9割が発生している。
 これはどうしてかといいますと、アメリカと日本の戦争は、44年6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦で、もう絶体に決着がついてしまっていたのです。マリアナ諸島というのは、第一次世界大戦後、旧ドイツ領だったものを日本が委任統治領として統治してきた島々で、サイパン島、グアム島などが含まれている地域ですね。この海戦で日米の空母の機動部隊同士が戦い、日本側は決定的に負ける。ここで日本側は空母、航空機の大半を失います。

◆つまり、最後の最後は「日本兵が死を恐れないことを敵国が知ることになれば、彼らは恐れをなして和平交渉に歩み寄るだろう」などと、バカな考えを軍部上層部が持ったために、こうなった。結局当時の兵隊さんは捨て駒にされたということでしょう。この本には出てきませんが、当時の神風といった考えや、人間魚雷や「桜花」といった特攻兵器の開発が1944年ごろに行われたことを考えると、当然の帰結といえるかもしれません。何しろ部下に向かって「生きて帰って来い」と言えない状態だったわけですから、戦闘に向かうということは確実に死ぬということだったんですね。下手に生きて帰ってくると白い目で見られる。軍の上層部はのうのうと生きているのに、誰もそのことをおかしなことだと指摘できない状態だった。でも、そういう状況を想像できてしまう自分が怖くもあります。

〓 終戦間際は過去の加害者行為を忘れるほど悲惨な状況だった

■389ページ
 日本人はドイツ人にくらべて、第二次世界大戦に対する反省が少ない、とはよくいわれることです。真珠湾攻撃などの奇襲によって、日曜日の朝、まだ寝床にいたアメリカの若者を3千人規模で殺したことになるのですから、これ一つとっても大変な加害であることは明白です。
(…中略…)
 しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受身のかたちで語られることはなぜ多いのか。つまり「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択してきたのには、それなりの理由があるはずだと私は思います。44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そして9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。

◆要するにあまりにいっぺんに戦死者が出たのと、遠方からの出撃だったために確認ができなかったんですね。さらにこの頃の殆どの出撃は一方通行で、戦況報告が殆どなかった。みんなむざむざと終戦間際に死んでいったために、それ以前に他国に攻め込んだことなど国民の印象に残らなかったのでしょう。喉元過ぎれば熱さを忘れる。の逆の意味で反省することを忘れてしまったのでしょう。

〓 国民の食料を最も軽視した国

■399ページ
 そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通底していました。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の項の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。工場の熟練労働者などには猶予があったのですが。肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が担われるので、44、45年と農業生産は落ちまくる。政府が、農民のなかにも技術者はいるのだと気づいて、徴集猶予を始めるのは44年です。これでは遅い。

◆日本人はやはり兵站が下手だったのですね。根本的なところで間違っている。しかも、同じ兵站の間違いをフィリピン沖でもやっている。国家を守る、つまり国民を守るという意識はどこかにすっ飛んで、とにかく勝利するとか、潔さとかにこだわっていたのでしょうか。

 この本では、残念ながら当時の市民感覚はそれほど伝わってきません。多くは世界情勢とそれぞれの国が取った政策や、政治的経済的関係に絞って説明しているからです。それでも部分的に人々の感覚が語れる場面があります。それによると、やはり個人の生活が第一なんですね。特に農民が困窮しているところに、軍部が農民たちの救済策を打ち出して政治に加担しようとする。当然農民は軍部を支持します。ということは間接的に戦争を支持してしまうとう構造になります。

 こんな風に、加藤教授の抗議は進みます。日本の戦争の歴史を再認識できます。あくまでもそれは事実の一部として、そして、そのことについての善し悪しについては論ずることなく、あくまでもなぜそうなったのかを問います。
 そして、教室の中の臨場感と、学生たちの真剣なまなざしが見えるような、そんな本でした。

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