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シリーズ戦前昭和(その3) 『昭和前期の家族問題』 湯沢雍彦著

昭和前期の家族問題: 一九二六―四五、格差・病気・戦争と闘った人びと

 この本は、題名が示すとおり戦前の個人の生活がどうであったかを中心に書いています。つまり庶民から見た昭和前期。結局のところ貧困の中にあっては正義とか自由とか、言論弾圧などに対抗する前に、とにかく食うことが重要であるということなんですね。食わにゃ生きて行けない。

政治*
軍事*
経済*
社会**
文化**
生活***

 この本の書評記事へのリンクを載せます(記事著者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます)。

匠雅音の家族についてのブックレビュー:2011年8月11日の記事

読んだ本の内容まとめ:2011年8月30日の記事

活字浴:2011年12月21日の記事

 さてここからは引用とその感想を書いていきます。

〓 当時は今の中国のような格差が広がっていた

■10ページ
 ところが東京では、同潤会をはじめ近代的なアパートが竣工し、地下鉄や私鉄が伸び、デパートでは男女洋服売場を拡大、渋谷や浅草にはターミナルデパートも出現し、文化住宅も増えるなど、始まった軍需景気と綿布輸出で7%も経済が生長し、消費文化はますます盛んになっていた。だが、都市の中でも、下町に多かった(肉体)労働者や小さい商人、職人の家族たちは低収入が続いて、義務教育が済むと奉公に出される子がほとんどだった。
 このように、大都市と農村との間にあたかも別々の国のようにすさまじいほどの大きなズレがあり、都市の中でも上中サラリーマンと労働者・職人等の間にも生活の大差があったことが昭和前期の一大特色だった。

◆戦前の格差は、今の日本国内の格差とは構造が違っていたことがわかります。当時の日本の格差は今の中国の格差に近いのですね。そもそも現在は農業人口が大きく減っているので当然といえるのですが。
 つまり、格差の発生は産業の転換の中で発生しているともいえます。戦前はちょうど一次産業から第二次産業への転換が進行中のときでした。そして現在国内では第二次産業から第三次産業への転換が起きています。実際に、産業別人口の推移では1990年ごろから第二次産業人口が減り始め、第三次産業人口が増え始めるのですね。いってみれば、貧困層となる対象が、戦前当時の第一次産業従事者から現在は第二次産業の従事者に代わっているといえます。

〓 庶民の生活はきわめて質素だった

■19ページ
 昭和前期の時代には、まじめ調のラジオは始まっていたが、テレビはまだなく、大人の多くは新聞や週刊誌も読まなかったので情報量が乏しかった。そのこともあって、都会の職人層や農魚村のかなりの人は、伝統的な技術と方法に誇りを持ち、食べることに事欠かない収入がある限り、欲張らず、「知足安分」つまり足るを知って分に安んずる人々であった。

◆今、自分の職業に誇りをもって望んでいる人がどれだけいるのだろうか。サラリーマンにとっては、これはなかなか難しいことだと思う。それにもまして、フリーターや派遣社員となって働いている人々にとっては、誇りも、そして収入も、つまり両方を失ってる状態といえるかもしれません。

〓 一握りの富裕層の台頭

■113ページ
 おそらく高級サラリーマン家庭にとって、実質的な収入・支出のバランスが一番とれていたと思われる昭和12(1937)年にもこういう記録がある。
 当時の大会社の部長クラスの月給は約400円だったが、ボーナスは年7. 5カ月ないし12カ月で5000円前後、係長クラスで月給100円に対しボーナスは6ないし10カ月分で800円前後。
 他方、神奈川県川崎市の分譲住宅は、門・生垣つきの敷地45~50坪、2階建て5部屋の建物で、価格は3650円、ローンだと内入金540円、月掛40円であったから、部長クラスならボーナスだけで即金購入ができた。
しかし、中等学校卒の平社員だと、大会社でも平均月給60円で、ボーナスは3カ月分程度であった。サラリーマンの中でも上下の格差は大きくある時代だったのである。

◆つまり、地方と都市部、都市部の職人とサラリーマン、サラリーマンの平社員と役職者それぞれで格差があったことになります。そして、この格差の構造は、もしかして今現在もそうなのでしょうか?

〓 いつの間にか民衆は批判的な精神を失っていた

■118ページ
 前項のキャサリンの記録で見られたように、昭和ひとけたに生きる大衆の大部分は、社会に対する批判性などまったくない。無気力で、毎日が楽しければそれでよく、拡大する戦争景気の流れにのってしかもある種の幸福感すら持っていたのはなぜだろうか。現代の中年以下の人には、理解できないことではないだろうか。私に言わせれば、次の4つの背景が大きい。
 第一は、義務教育…(中略)…
 第二は、下層労働者と小作農民の大部分は…(中略)…結局は資本の力と警察の力によって民衆の力は抑えこまれてきた。…(中略)…
 第三に、知識人や物思う労働者は、…(中略)…組織化をはかろうとした。しかし政府当局は大正13年「特殊高等警察」(いわゆる特高)を東京以外の10府県に拡大するなど警察の強化と中等学校以上に軍人を派遣して軍事教練を強化するなど、国粋主義を高めるようになった。…(中略)…
 第四に、…(中略)…マスコミから流れるものは、軍国主義・天皇制主義の主張ばかりで、あまりにも非文化的かつ非合理的でついていけるものではなかったことがあって、物思う知識人の多くと、中流以上の恵まれた階層家族のほとんどが政治から逃避するようになった。…(中略)…
 だが大きな目で見ると、このような社会の姿に疑問の念を抱いていたのはごく少数の人々で、その他の圧倒的多数の日本人は、政府の指導によく従い、軍隊の勝利を信じ、物資の欠乏にもよく耐える「忠良な臣民」であった。政府のプロパガンダ(政治的意図を宣伝)に黙々とついていった。また、それしか生きる道がない時代だったのである。

◆当時の日本の為政者は、教育、法律、警察権力、情報統制、と四方面から完全な統制を行ったということです。独裁者はいないが独裁政権的だったんですね。共産主義を弾圧したものの、体制的にはソ連のスターリンや中国の毛沢東と殆ど変わらない。どうしてもアメリカやイギリス的になれない。国民は米英にあこがれていて、ロシアや中国を毛嫌いしていたのに。不思議です。

〓 「君が代」を斉唱をしないと懲罰される?

■122ページ
 学校は明治神宮北参道入口から10分のところにあったので、毎月一日は1・2時間目をつぶして上級生の神宮参拝が行われた。朝礼で校長先生が明治天皇御製の和歌を読み上げ、それを全生徒が唱和してから出発するのだったが、六年になった時、帰校時に誰も復唱できる生徒がいないというので、校門前に1時間も立たされたことがある。およそ生徒には反抗的な批判精神などはなかったから(社会全体もそうだったが)、皆おとなしくこのおしおきに従っていた。ときどき「父兄会」があって母親ばかりが集まってきたが、学校の方針に異議をとなえる親などは一人もいなかった。

◆昨年度の卒業式での「君が代」斉唱問題がにわかに浮上してきました。でもこの問題は以前からあったものです。それで、1999年に官房長官であった野中広務が国旗および国家に関する法律を作ったんですね。しかし、その当人がこの法律により国家を斉唱しないものが罰せられることはない、といっていたのです。野中氏は最近になって、口の動きまで監視して教員を懲罰する風潮に警鐘を鳴らしています
 そもそも、野中氏がこの法律を作った理由は、当時、文部省と教員との板ばさみにあって自殺した校長がいたからです。野中氏は、このような悲劇が起こらないように、とまずは「君が代」をはっきりと国家として定めようとしたわけですが、これによって現在の状況に至るのは想像に難くないと思います。この後この問題がどの方向に発展するかはわかりません。しかし、国民の思想を統制するために利用されることだけは確かだと思います。

〓 サラリーマンの失業

■176ページ
 失業者の中には、安定したサラリーを貰えることで羨望の的であった高学歴の筆が立つ知的労働者が多数含まれているのが特色だった。総合雑誌『中央公論』は、昭和5年8月号で失業体験記を募集したところ、多数の応募があった。入選作となった5編の一つ、江崎秀夫はこう言っている。
「俺等には仕事が無いんだ。もう、質草も借金可能性も、古本も無いんだ。米も無く成る、味噌も醤油も。為政者達よブルジョア御用学者たちよ。俺等は仕事が無いんだ。喰へ無いんだ。役にも立たない軍縮問題や、組合法案などと資本家の手先となって騒ぐより、失業問題を一日も早く解決しろ。明日から復の膨れる方法でも考え出して呉れ。空腹は来年まで持たねえんだ。俺等は餓死に迫られて居るんだ。"餓死"か、さもなくばxxより外明日から俺等は道がねえんだ」。

◆引用文の「xx」はママなのですが、この隠された単語は「犯罪」とか「窃盗」とかでしょうか。雨宮凛さんの本「生きさせろ」には、現代の貧困層が同様の言葉を述べているのを書いていました。
「病気になった原因も、うちらが悪いわけじゃない。いま貧乏なのも、うちらが努力しなかったわけじゃない。うちらはやれること精いっぱいやってきた。そのなかで社会に適合するのが下手だったから貧乏になっちゃった。それ対して、君たちが悪いといわれたら身も蓋もない。じゃあ残る道はなんですか。犯罪者ですか、それても自殺ですか」
 つまり「基本的人権」をこの国は失ってしまっている、ということなんですね。戦後の日本国憲法にはしっかりと生存権が書かれているんですが、実態は戦前に戻ってしまっている。

〓 格差の問題はタブーに近かった

■241ページ
 このように、左翼的な思想や運動は弾圧され続けた。大学を出て事務系サラリーマンに就職できた者も、内心では極端な格差の存在には怒りを感じていたが、実際にはただじっとしていた。プチブル・インテリの本能的卑怯のために、実際に参加ができない人間になるほかなかったのである。
作家の広津和郎は、昭和7年の時点でこう書いている。
「インテリ及びサラリーマン層が、毎日毎日どんなに憂鬱な、未来のない、明日のことを考えても仕方がない、考えても解らない、だから考えずにその日その日をただ送って行くと云った気分で生きているかという事は、此処に云うまでもなく、その層の人々がよく知っているだろう。……こんな生き方は、凡そ人間としては恥い生き方ではあるが、併しこんな風にしか彼等には生きる道が他にないのである」。

◆「本能的卑怯」という表現が、当時の知識階級の心境を的確に表していると思います。うっそうとした、絶望的な人生観しか持てなかったのでしょう。そんな中で、格差の問題に取り組むことは、学校などの集団の中でイジメに対して異議を言えない構造に似ていると思います。
 しかし、今も「絶望の国の幸福な若者たち」という書籍が話題となっているように、当事者たちはそれ程絶望を感じていなかったも知れません。いや、むしろ感じまいとしていたのか。あるいは、この引用にあるとおり、考えても仕方がないと腹を括ってしまっていいたのでしょうか。

〓 「希望は戦争」にあった

■244ページ
 昭和初年までの多くの知識人に支持されていたマルクス主義は、激しい弾圧で影響力を失い、ナチズムにもファシズムにもついていけない知識人たちは気力を失なってきた。それに代わって、地方では、軍部や政府の指図に従って皇室主義や軍国主義の担い手となった町や村の有力者が新しい指導層になってきた。中小地主・青年団長・在郷軍人・役場吏員・小学校長などである。これらの人達は、もう昭和5・6年の頃から防護団の結成や防空演習、青年学校の教育などで住民に保守的な考えをふきこみ、大衆を戦争に駆り立てる先頭に立っていった。国民は社会の矛盾や貧困も忘れ、どんな戦勝の報道にも拍手し、喜び浮かれるように変わっていった。勝ちいくさの報道はすべての人を麻痺させる妙薬なのである。軍需景気で収入も上がってきた。
 満州事変が昭和6年に始まるや否や、日本国民の雰囲気はがらりと変わって、一般大衆は喚声をあげて軍隊の行動を賛美した。インテリ層の大部分も「冷静傍観」するのをやめて、戦時体制にのめりこんでいった。個人主義は悪で、団結して国のためにつくすことが一番大切になっていく。

◆この辺が、正常を保った国民がそうではなくなる分かれ道だったのかもしれません。国土が広がるのですから、やはり閉塞感から開放されて、夢や希望も持てるようになったのではないでしょうか。インテリ層もこの時点では戦争に賛同してしまうわけです。しかし、結局これが太平洋戦争へと繋がる第一歩だったのは間違いありません。この引用の最後の文「個人主義は悪で、団結して国のためにつくすことが一番大切になっていく」という記載に、私は、日本国民の特殊性が持っている罠に国民全体がはまり込んでいくような不気味さを感じます。

〓 今の日本も、外国から見たら相当おかしいかもしれない

■245ページ
 外国から帰ったばかりの詩人、金子光晴は、この現象に驚き呆れて、(戦後になってからだが)自伝の中でこう書いている。
「だがその当時から、僕としてはどうしても腑におちないことが一つあった。内心はともかくたとえ表面だけのとしても、昭和7、8年頃までの日本人のインテリと称するものがいて、世界共通な人間的正義感を表にかざして自由開放を口にしていたのが、いかに暴力的な軍の圧力下とは言え、あんなに見事に旗色を変えて、諾諾として一つの方向に就いてながれ出したということは、10年近くも日本をはなれてかえってきた僕には了解できないことであった。明治の日本人が、わずか一銭の運賃値上げに反対し、交番を焼き討ちした血の気の多さが、今日、こんな無気力、奴隷的な、何の抵抗もできない民衆になりはてたということを、そんなに取り立てて不思議に思うのは、昭和のはじまりからとくに発達してきた大機構の重圧の下に、われわれ国民が全くスポイルされてきた経緯を不在のために僕がいっしょに味わい理解する機会を与えられなかったからであろう。
 戦争がすすむにしたがって知人、友人たちの意見のうえに、国民教育の反応が如実にあらわれてくるのをみて、僕は呆然とした。ちょうど外来の思想が根のない借り物で、いまふたたび小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々がふるさとにかえりついたようにほっとしている顔をながめて、僕は迷わざるをえなくなった」

◆この文章はおそらく当時の外から見た客観的な日本の状況を言い表していると思います。日本人は豹変したんですね。そもそもついさっきまでロシアと中国を敵にしていたのが、いきなり鬼畜米英とかなるわけですから、やはりどう見ても理解が及ばない国民性に見えたと思います。そして敗戦後に日本人は再び豹変してしまう。左から右へ、そして右から左へと。今度は再び左から右へと豹変するのでしょうか。

〓 軍国主義の裏返しがここにある

■262ページ
 たしかにその後の日本は、このような小さな道徳の退廃はたくさんみられたが、組織的な大規模秩序違反や大暴動は起こらずに終戦に至った。限界に近かったが、尽忠報国中心の精神で何とか持ち応えたといえる。
 そして、家族内の秩序も守られていた。働き手を戦争と動員で奪われ、生活物資の欠乏に苦しめられながらも、社会福祉がきわめて貧困な時代に、子どもの出産育児の機能を果たし、高齢者や病者の介護もよく果たしたといえる。家族の機能は、社会が困難な時代であったればこそ、かえってよく保たれたともいえるのではないだろうか。

◆最後はやはり家族なんですね。今は孤独死が問題になったり、お一人様といわれる単身者が増えています。こういった環境を作ったのは、やはり戦後世代といえるでしょう。私たちはもう一度家族主義的な考えに戻ったほうが良いのかもしれません。しかしそのことが、全体主義に繋がりやすいことを十分踏まえるべきでしょう。

〓 道徳の退廃

■363ページ
このような状況の中で、父兄の立場から、学校側と激しく争った珍しい記録があるので紹介しよう。東京都の画家であった塚原清一が、昭和48年に「父のみた学童疎開」として書いたものである。
「…(中略)…
 帰って早速父兄の一人に現地の事情を伝えると、たちまち血相が変わった。父兄会が開かれ、激昂した幾人かが学校へ押しかけて、教頭らをつるし上げるという事態になった。……一カ月後、急拠学童らを呼び戻すとともに、きれいに校長一派を学校から追い払ってしまった。疎開地の教師達は子供らの飯米をピンハネして、闇売りまでやっていたという事実も明るみに出たのだから、これもやむを得ぬなりゆきであったろう……」。
 学童疎開は、空襲という非常時の中で、飢えの苦しみが続いたときに、教師と生徒と親の人間性がむき出しになって争わなければならない苦しい大変な(多くの体験者にとっては、思い出すのも嫌なくらいの)ときだったのである。

◆教師の側も人間性が荒廃していたのですね。こういった話は『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』にも出てきました。ある人は人を押しのけないと生きていけない時代だったといい、ある人は互いに助け合わなければならない時代だったといいます。どちらも正解なのだと思います。ただ、どちらの人間が生き残るかでその集団の行く末を決めるのではないでしょうか。今の日本は、どちらの人間が生き残るのでしょうか。

〓 家族が一番

■371ページ
 いずれにせよはっきりしてきたことは、この非常時においてこそ、人間にとって家族の存在がかけがえのない貴重な人間関係であることが再確認されたことであろう。
 イタリアの庶民は困ったことが起こると「家族が第一、教会第二、哀れな国家は三番目」という言葉をつぶやくという。日本でもこの時、お寺や神社は助けにならなかったし、国家はそれ以上に役に立たない存在でしかなかった。

◆日独伊三国同盟を結んだ国の共通点はいずれも世界から孤立したことだと思います。お国柄が似ているとは思いませんが、でもやはり全体主義に走りやすいという共通点はあるのかもしれません。

〓 不況と格差と戦争とそして家族

■376ページ
 大切な人間を数多く失い、住む所も資産も一挙に失った苦しさは筆舌に尽くしがたいほど大きいものだったが、終戦までの18年余りの昭和がすべてこうであったわけではない。
 昭和10~20年頃の大都市では、終戦前日本としての文化や科学の最盛期を迎え、高収入に恵まれた中上層の家族は、かなりの物資にも囲まれて、それなりの幸せを享受していた。しかし他方、農村の小作農家はすさまじい貧困がずっと続き、都市でも労働者や下層の職人・商人などの家族は絶体的な貧しさから生涯抜け出すことができなかった。そしてまた一方では、中国で始まった戦争は一時的には戦争景気をもたらし、その時には戦争を歓迎する声すらあったのである。
 終戦までの昭和は、政治・経済・軍事・外交などの事態は常に複雑に輻輳し、理解がまことに難かしい時代だった。そのなかで家族がどう暮らしたかは、結局人間がどう生きたかにつながる問題である。

◆不況と格差と、やがて戦争へと突き進む日本にあって、家族という社会の最小単位が抱えてきた問題は、実は多様であったということをこの本は結論として述べています。核家族化が極端に進んでしまった現代では、孤独死が問題となっています。一方で、就職難にあえぐ若者は家に残り親とともに生きる道を選択しています。彼らにとってはある意味独立できないとう問題を抱えているようにも見えます。しかし、それは不況の中にあっての、本来の家族の姿なのかもしれません。

 もし仮にこれからの時代が、昭和前期と同様の道程をたどるのなら、私たちは人と人とのつながりをより一層大切にしなければならない。そういったことをこの本は教えてくれているような気がします。311は私たちにそのことを教えてくれました。私たちは、何かがあったときに、助けてもらうつもりではなく、助けるつもりで人とのつながりを保つべきなのだと思います。

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