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幸せな死に方があってもいいじゃないか 『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 中村仁一著

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)

 ひとりひっそり考えた。最近、誰にも看取られずにひっそりと死ぬ「孤独死」が問題になっている。しかし、独居老人が増え続ける限り孤独死も必然的に増える。少子高齢化が進む日本では、起こり得るべくして起こっている現象といえる。孤独死を減らそうと思うなら、独居老人を減らすべきだ。もしくは孤独死をする前に、病院に連れこめばよい。しかし、ことはそう単純ではない。そもそも、一人で自活できる彼らを無理やり老人ホームに入れる必要があるのだろうか。あるいは、ひとりぼっちで死ぬということは、社会的な悪なのだろうか。
 孤独ではあるが、安らかな死を迎えようとする老人に対し、余計な生を苦痛と共に押し付けてはならない。彼らが要求するのは、病院によるお仕着せの生ではなく、みずから選択する安らかなる死なのである。その願いは小説「死支度」にえがかれている。このことは、死期を迎える老人にならなければわからないであろう。弱者の苦痛は弱者となったとき初めてわかるのだ……。

 最近そんなことを考えていたら「病院など行かずに安らかな死を」と訴えている本がありました。副題は『「自然死」のすすめ』。決して、病気や事故による痛ましい死を肯定しているわけではないですよ。その辺を勘違いしてはいけません。あくまでも、自然死にこだわる。寿命で往生するとは、本来の自然な姿であって、病院で人工的に生かされるのは本来の人の死のあり方ではない、と著者はいっています。

〓 自然死を知っていますか?

 私たち現代人が忘れつつある自然死とはどういうものであったか。最近の日常生活のなかではすっかりお目にかかることがなくなった自然死。それは、まるで青々としたこと天然ワサビの、心地よく脳天にツンとくる辛味にも似たものがあります。
 つまり、自然死とは「ツンときてスーっと生きをひきとる」ことなのです。

49ページ
「自然死」は、いわゆる“餓死”ですが、その実体は次のようなものです。
 「飢餓」……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
 「脱水」……意識レベルが下がる
 「酸欠状態」……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
 「炭酸ガス貯溜」……麻酔作用あり
 詳しくは次の章で述べますが、死に際は、何らの医療措置も行なわければ、夢うつつの気持のいい、穏やかな状態になるということです。これが自然のしくみです。自然はそんなに苛酷ではないのです。私たちのご先祖は、みなこうして無事に死んでいったのです。

〓 医療が自然な死を阻んでいる

 以前このブログで記事にした、松下幸之助の妻の自伝「神様の女房」。この小説がNHKドラマで放映され、その中で、幸之助の妻「むめの」の父井植清太郎が息をひきとる場面がありました。これがまさに自然死、畳の上での死に方だ。私はそう思いました。
 この小説「神様の女房」の時代背景は昭和初期です。そのころと比較すると現在は、社会のありかた、家族のあり方が大きく変わりました。現代社会では人が死にそうになるとほぼ100%病院へ運ばれます。つまり、必ず医者の手にかかるわけです。

 2011年に日本老年医学会がアンケートを実施しました。その結果「自分では食べられなくなった85歳のアルツハイマー患者に対して、何もしない」と答えた医師はわずか10%でした。残りの殆どの医師は、「なんらかの延命措置をする」と答えています。85歳は明らかに老衰だと思うのですが、今の医学界ではそういう判断はできないようです。結局、死にそうな姿を人目に晒せば100%病院へ運ばれ、90%の確立で延命措置を施される。病死でも事故死でもない老衰に対して、無理やり死期を伸ばすわけですから、医者のもとに運ばれたら最後、殆どの場合は安らかな死を免れてしまう、という悲惨な結果に終わる(いや終わらない)わけです。
 この実態は、実は「人生最後の拷問」を人々に与え続けていると言えます。

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 以上のように、現在では、医療の“虐待”のみならず、「食事介助」「生前湯灌」「吸引」などの介護の“拷問”を受けることなく死ぬことは、至難になっています。
 今や誰にも邪魔されず、「飢餓」「脱水症状」という、穏やかで安らかな“自然死”コースを辿れるのは、「孤独死」か「野垂死」しかないというのが現実です。
 本人が自力で食べられるように、調理は工夫して目の前に置くが、手を出さなければそのまま下げてしまうという北欧式や、『「平穏死」のすすめ』(石飛幸三著、講談社)の中に出てくる、「栄養をとらずに横たわる人を、水だけ与えて静かに看取る」という三宅島の先人の知恵を、もう一度、噛みしめてみる必要があると思います。

〓 病院の片隅にあるこの世の地獄

 今後は医学的な見地に倫理的見地を交えて、医師の意識改革を迫る必要があると思います。命を助けることが医師の使命。確かにそうなのですが、それは時と場合と相手によりけりです。患者の将来に小さな楽しみや希望が見出せるのであれば、延命措置にも意味があると思うのです。しかし、そうでなければ、これはもう拷問でしかありません。「患者の命を守ることが医者の使命」という命題は、どこかで個人の幸せや自由を奪っている。患者の幸福を考える前に、患者の家族から訴えられないため命を守り、延命しようとする。結果、患者は苦しみながら死に至る。これが現代日本の殆どの病院で起こっている悲劇なのです。
 伊丹十三の映画「大病人」では、病院でがん患者が吸引(喉にあけた穴からチューブを挿入しタンを吸い出す)されるシーンがあります。映像では吸引を受けた患者が苦痛のあまり寝たままベッドを跳ねるのです。私はこれをずいぶんオーバーな表現だと思ってみていました。しかし、実際に目の前で吸引される父をみて、それが決して過大な映像表現ではないことを知ったのです。これを死ぬまで毎日数回患者に施すわけです。これは拷問ではない?。おそらく病院は治療だというでしょう。しかし、患者は思っているはずです。「これは拷問だ!早く死なせてくれ!」。

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治せない「死」に対し、治すためのパターン化した医療を行うわけですから、わずかばかりの延命と引き換えに、苦痛を強いられることになります。
まさに、「できるだけの手を尽くす」が、「できる限り苦しめて、たっぷり地獄を味わわせる」とほぼ同義になっているといっても、いい過ぎではない状況を呈しています。
これを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか。それは、親が一定の年齢に達したら(繁殖を終えたら)、「死」を頭の片隅において、かかわりを持っことだと思います。

〓 医療が死を奪うとき、この世の地獄が待っている

 中村氏は、命を蔑ろにしろと言っているのではありません。死を蔑ろにしてはいけないと言っているのです。人はいつかは死ぬのです。だからといって自ら死を選択せよと言ているのでもありません。そうではなくて、人生の終盤に近づき、自然な死に向かいつつあるのなら、自ら「死に方」を選択するべきだと言っているのです。
 一度死を選択したら最後、もう後戻りはできません。死後に「やはり生きたい」と訴えることはできません。だからこそ、死の選択には恐怖が宿るのかもしれません。しかし、現代医療では、生前に死を選択することができない状況を作り出します。それが本人意思の確認できない延命治療です。その時、最後に残される選択肢は、苦痛を伴う生かかあるいは死か。延命治療はこの二者択一の中から、「死」という選択肢をなくしてしまいます。これは現代に出現した新しい地獄といえるのではないでしょうか。

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 私たちは常に死に近づいています。時間だけは本来平等に与えられ、命の鼓動は死へのカウントダウンでもあるのです。私たちは、死を不幸と結びつけがちですが、実際にはそうではありません。希望を置き去りにした突然の死を不幸と呼んでいるのです。あらかじめ組み込まれた死は、むしろ幸せな死であるはずなのです。
 私たちには、希望の無い苦痛から逃れる権利があると思うのです。苦痛から逃れ安らかな死を迎えるとき、自分は幸せだったと感じればよいのです。そしてこの本は、そのことを明確に訴えているのだと思います。

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