炭素生命体は生まれない 『免疫の意味論』 多田富雄著
この本にはなにやら知らない言葉や記号がいっぱい出てくる。それでもこの本は面白い。なぜならそこには、生命の不思議が語られているからだ。
「我思うゆえに我あり」。このデカルトの言葉を聞くとき、私たちは妙に納得してしまうのだが、これは哲学的な思考実験にすぎない。免疫学的にはこの問は無意味であり、そう思っているあなたや私の「脳みそ」さえも、免疫が他者として破壊することがあるという。つまり、私を私たらしめている脳とは無関係に、免疫は他者と私を区別し外敵と戦っているのだ。
これらの免疫は私たちの体の中で、ウィルスや細菌を破壊し排除する役割を果たしている。風邪というのは一般的な抗原となるウィルスとの戦いなのである。そして、現代人に増えている花粉症も、やはり免疫による過剰な抵抗なのだ。
人体を分子レベルで解説した本『動的平衡』によると、人体の成分は分子レベルで常に入れ替わるという。これを可能にしているのは人体に免疫が備わっているからだ。人体は外部から数々のものを吸収し、それを体内に取り込むことで生命活動を維持している。このときに、自分以外の生命体のうち病原となるものを除去しなければならない。また、食べ物を胃や腸で体内に吸収すると同時に、分子レベルに分解できないものや毒素となるものは排除する。さらには体内に入り込むウィルスは体内で免疫によって破壊される。
つまり、免疫は分子レベルで「自己」となるべきものと「非自己」であるものを区別している。考えてみれば実に不思議な話だ。何しろ型どおりに自分以外のものを発見して除去しているのではなく、免疫系が体内でインフルエンザウィルスを一度認識すると、抗体を作って記憶するのだ。未知の病原菌に対しても実に巧妙にそれらを発見して除去する機能を免疫は持っている。免疫システムがどのようにして自己以外の物の中からさらに毒素となるものを排除しているのか。その緻密で巧妙な仕組みを、近年の免疫学で発見された学説を織り交ぜながら、一般の人々にわかりやすく解説する。それがこの本のテーマになっている。
この本を読むと、免疫の働きが恐ろしく巧妙に造られていることに驚かざるを得ない。免疫細胞であるT細胞は「胸腺」という臓器で作られる。T細胞はその過程のなかで2段階に選別される。最初はまず、HLA抗原を認識できるものが選び出される。HLA抗原とは固体を認識するための抗原である。他人の臓器を移植すれば拒否反応が起きて、免疫系はその他人の臓器を異物と見なし攻撃する。成分や機能としては同じであるが、中に含まれる遺伝子が異なるからである。私という身体のもつ臓器は、その臓器を構成する細胞自体に遺伝子名札が貼られているわけだ。
そして第2段階の選別では「自己」と反応しないT細胞が選ばれる。T細胞が自己と反応するということは、自分自身を攻撃する可能性を残すからだ。
要するに、胸腺はランダムにT細胞を作り、その中から自分という固体を識別でき、かつ自分の細胞を攻撃しないものを選別しているのだ。これによって、胸腺によって作られたT細胞のうち、わずか約3%が残され、残りは遺伝子操作により死がプログラムされる。一見この無駄な措置は、未知の病原菌に対して抗体として機能するよう多様性を確保するためであるという。
実は私はロボットに非常な興味を持っている。『ポスト・ヒューマン』(カーツワイル著)という本があり、人類はやがてロボットと融合し、果てには炭素生物(つまりロボット)が次世代の生命体として地球を支配するという、著者の予言が書いてある。私はこの話に、半分以上は納得したのだ。しかし『免疫の意味論』を読んだあとは、炭素生物の到来はないと言わざるを得ない。どれだけロボットが人類より優れようとも、分子レベルで常に自己を物理的に更新しながら自己という秩序を維持するような巧妙な仕組みを持つことは、ロボットにはできそうにないからだ。細胞レベルで生と死を繰り返しながら、さらに固体においても生と死を繰り返すことで、種を保存するというこの巧妙な仕組みがなければ、連綿と続く生物の進化もないのである。つまりロボットがその固体の連続のなかで進化することは不可能なのだ。
『免疫の意味論』にはロボットの話は登場しない。しかし、ロボットが人間に近づきアンドロイドが現実になりつつある今、その外見や機能が人間とく区別が付かないほど精緻になったとしても、それを生命とは呼べないことを、この本は明らかにしていると思うのである。
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