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海外から見た日本の非民主性 『「本当のことを」を伝えない日本の新聞』 マーティン・ファクラー著

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

 311をきっかけとして日本のジャーナリズムが問われた。しかし私達はまだその答えを出していない。いや、出せないのかもしれない。なぜならここは日本であり我々がに日本人だからなのだろうか。

 この本は、ニューヨーク・タイムズ東京支局長が書いている。どうやら日本のジャーナリズムは海外から見ると異質であるらしい。特に、記者クラブという日本独特の制度はほかに類がないという。

53ページ
 お隣の韓国にも、最近まで日本とよく似た記者クラブ制度が存在した。だがインターネットメディアと既存メディアの間で軋轢が表面化した結果、2003年、盧武鉉大統領が記者クラブ制度を廃止している。世界でも稀に見るこの組織は、英語圏では「Kishaclub」「kisha kurabu」と呼ばれる。あまりにも特異すぎて、翻訳語が存在しないのだ。

 日本の新聞に偏向報道が多いのは過去311で既に多くの国民が経験済みである。にもかかわらず、記者クラブは批判を浴びないし、原発報道に関してはまるで原発事故がなかったことのように、原発再稼働を当然のこととして報道する新聞社が多い。つまり、日本は相変わらず偏向報道がまかり通っているわけだ。1941年に大本営発表がなされて以来、この姿勢は日本国の内底に脈々と流れているようである。

 しかし、日本のジャーナリズムが民主主義国として大きく立ち遅れているのは国民の意識にも問題があるからだといえる。そのことを著者は次のように簡潔にまとめている。

143ページ
 もしアメリカで、公権力の不正を新聞が徹底的に追求すれば何が起きるだろう。記事を読んだ市民が間違いなく怒り出す。有権者の怒りに対し、彼らに選ばれた立場の州知事は敏感だ。報道が正しいと判断すれば、州知事は組織のトップや幹部を総入れ替えするだろう。民主主義とは本来、そういうことだ。
 誰かがインチキを働いていれば、メディアが厳しく追求する。メディアの報道が当局を動かし、インチキを働くものを厳しく処分させる。読者はメディア報道を支持し、不正を撤廃する為政者を支える。
 新聞が正しいジャーナリズムを追求し、市民が応援するならば、当局の組織を根本的に変えることだってできる。当局から不当で陰湿な嫌がらせを受けたとしても、新聞社が頭を下げるようなことがあってはならない。何が正しく何が間違っているのかを、逆さまに履き違えてはならないのだ。

 昨日来話題になっている復興庁幹部のTwitter暴言に関しても、新聞はその言葉尻しか捉えていないように思う。海外のメディアであれば、どのような理由で述べた発言なのかを本人にインタビューをするだろう。これは、かつての鉢呂氏の報道と同じ状況だ。残念ながら、日本人は真実の探求に疎いのではないだろうか。

 横並びの新聞紙面に疑問を感じる。または日本のジャーナリズムが変だと感じる方はぜひこの本を読んでほしいと思う。

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