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原子力ムラとはいかなる実態であるのか 『「フクシマ」論』 開沼博著

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

 2013年9月7日、2020年の東京五輪開催が決定した。これに合わせるように、フクシマの汚染水問題に対しては国家が責任を持って対処することになった。
 やがて福島第1原発はすべて廃炉にすることが決まった。そして、新潟県は、柏崎刈羽原発の安全審査申請を条件付きで承認するという。

〓 原子力ムラはなぜ生まれたのか

 311から約2年半、いつになったらフクシマが元の活気を取り戻すのか、その先は全く見えない。いったいなぜこうなったのか。なぜフクシマには原発が集中しているのか。その歴史と原子力ムラの実態をレポートしているのが、この本である。
 しかし、題名から察しがつくとおり、この本は硬いノンフィクションではない。もっと硬いが、しかし一般にも読みやすい論文であると思ったほうがよい。フクシマに住む著者(たくきよしみつ)自身が書いた『裸のフクシマ』とは明らかに肌触りが違うのである。

 そもそも原子力ムラは存在するのか。いったいこの言葉自体がどこから発祥したのか。この本では、原子力ムラというものの意味あるいは分類について、以下のように書いている。

292ページ
 本書が主な対象とする原子力ムラとは、原発・その関連施設の立地地域をさすために、これまでの農村社会学等の蓄積を踏まえ「ムラ(自然村としての農漁村)からの変貌」を捉える上で設定した概念だが、一方で、中央における〈原子力ムラ〉という概念も設定した。
 〈原子力ムラ〉とは、特に原子力業界の関係者の間で、閉鎖的かつ硬直的な原子力政策・行政を揶揄する言葉として使われてきたものだ。そのように、すでに概念としてある程度成立しているにも関わらず、それとはまた別の意味で(〈原子力ムラ〉に対する)原子力ムラという概念を設定するのはなぜか。
 それは、この一見全く関係ないように思える二つの「原子力ムラ」が、実は対称的に扱われるべきであると考えるからだ。
…(中略)…
 原子力ムラが見てきた夢とはここまで追ってきた「子や孫のため」という言葉に象徴されるような愛郷の実現への夢に他ならない。それはかつてとは形を変えながらも今日に持続しているものと言える。一方〈原子力ムラ〉が見た夢とは、核燃料サイクルによって自国内での資源確保を擬似的に達成する、ということに象徴される。もしそれが実現すれば、エネルギーを他国任せにせず成長が安定する。これは、例えば第二次世界大戦における石油禁輸措置が日本敗北への大きな転機だったことに象徴されるように、日本の近代化のなかで常に認識されてきた、極めて大きな夢だといえる。

 原子力ムラとは「ムラ」という言葉に象徴されるように、その集団の内と外とを区分する、閉鎖的な集団のことを指している。ここで述べる「原子力ムラ」には原発の設置を受け入れる原子力ムラと、その対向にある原発を押し付ける側の〈原子力ムラ〉の2つが存在する。前者はムラのため、あるいは「子や孫のため」という大義名分を持っている。そして後者は日本のためあるいは「国民のため」という大義名分を持っている。双方ともが原発にある種の夢を託している。筆者が述べる原子力ムラの定義からはそんな含みが読み取れる。

〓 日本の原子力の始まり

 では、日本で初めて原子力が扱われたのはいつの事だったのか。それは、戦時中の1940年に遡る。この時、日本陸軍が、原子爆弾の開発に着手する。そして、日本国内でウランの採掘が開始されているのだ。結果的に日本には十分なウラン鉱石が存在しないことが分かった。それでも、終戦まで原子爆弾の開発は続けられていたのである。
 そして日本に原子爆弾が投下される。終戦後、55年体制の初期、日本は原子力の平和利用を模索している。政官財とマスコミが一体となって、原子力発電の導入を夢見たのだ。この時に大きく関わったのが正力松太郎である。正力松太郎は読売新聞の社主を務めたのだから、おそらく読売新聞や日本テレビは、社風の中に原子力推進が染み付いているのではないだろうか。このことがますます原発問題に対する世論の扱いを難しくしているように思える。

 政官財マスコミを抱えた〈原子力ムラ〉の夢はやがて現実のものとなる。それは原発が建つ地方の側でも同じように夢として語られる。当時はまだ、原子力がどういったものかを知らない人が多かった。原発が誘致される地方、つまり後の原子力ムラの住人は、原発に関する書籍を必死に読んで勉強する人も多かったらしい。最初はわからないものに対する恐怖のようなものがあったが、やがて皆が安全神話を信じるようになり、あるいは原発が建ったことでムラの景気が良くなると、危険性については目をつぶるようになっていったという。

〓 Addiction(嗜癖)による選択と集団主義

 この本には、人びとが生活をする上で本来は避けるべきなのにやらざるを得ないこと、つまり「嗜癖」をaddictionと表現している。この言葉は著者(開沼博)の次作『漂白される社会』にもアディクショナルという言葉として登場する。このaddictionは、筆者が現代社会に見出した、得体の知れない何かを表すキーワードであることには違いないようだ。

 さて、原子力ムラとなる住人たちが結果的に原子力発電所の誘致を受け入れざるをえなくなる姿をみて、私は2年ほど前に放映されたNHKの番組を思い出した。題名は忘れたが、格差と貧困を扱ったドキュメンタリーだったと思う。アルバイトや日雇いで生計を立てている若者に、割の良い仕事の話が持ち込まれる。指定されたATMからお金を下ろし、その後指示されたとおりに行動する、というだけの仕事である。しかしどう考えても犯罪絡みの仕事であり、その若者はさんざん悩んだあげくその仕事を断る。もしその仕事を受ければ、現在住んでいるアパートから出る必要が無くなり一時的に急場をしのぐことができる。しかし、もし彼がこの仕事を断ったら、今のアパートの家賃は払えなくなり、路上生活者となってますます仕事を受けにくくなるのだ。それでも、この若者は仕事を断った。

 不遜なモノいいかもしれないが、原子力ムラが原子力の誘致を受け入れるまでの村人たちの葛藤には、このNHKの番組に登場した格差の底辺での誘いと同じようなものなのではないか。この若者が、犯罪というリスクを捨て、生活の困窮もしくは野垂れ死にというリスクを取った個人の判断の中には、犯罪に手を染めてしまうと社会から切り離されるという恐れも含まれていたのではないだろうか。
 そして、この本を読んでいくと原子力ムラの村人たちが、同じように葛藤するなかでは結果的にムラという結束を強めながら、同時に賛成派と反対派がそれぞれの相手方を切り放そうとする姿がある。その一方では原発誘致が決まった後にその原発自体のリスクを忘れ去り、中央にある〈原子力ムラ〉への依存を強めていくのだ。それはムラから切り離されることを恐れた個々人のアディクショナルな行動の結果にも思える。反対派はムラからも切り離され、中央政府からも切り離され拠り所を失ってしまう。そのような選択をすることは村社会のみならず日本というこの社会の中では極めて難しいことに思えてならない。

 今は「渇望」の時代だと思う。水やエネルギー、食料が足りない。あるところにはあるが、ないところには無い。そこではどうにもアディクショナルな選択をせざるを得ないというのが現実だ。原子力ムラとは、ひっそりと潜んでいたアディクショナルな選択の結果だ。それが311によって表面化した。それでも、結局のところ私達は、原発再稼働というアディクショナルな選択をせざるを得ないのだろうか。

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