読書:心のビタミン

小説、エッセイ、ノンフィクションなど

日本史ねなんて言わなくていい世界 『朝がくる』 辻村深月著

 最近事情があって殆ど本を読んでいない。でも、たまには読んでみようと思う。思うのだが、目的とする本がない場合は、そこいらにある本を手にする。そして読み始める。
 本の手触りを感じる前に、文章が読んでほしいと主張する。この本はそんな本であるのかもしれない。そいういった本では最初にハッとする場面があるものだ。そこが琴線となり徐々に小説の深みにはまっていく。

 読んだ後に考えるのは、その本の主張が垣間見えるからだ。「朝がきた」は、大人と子供の違いを明確するヒントを与えてくれた。そんな小説だった。
 大人と子供の違いを明確にしているのは、守るものがあるか、守るものが自分であるのかの違いだ。そして、もう一つは、守ることができるのか、できないかの違いだ。この小説の中で、子供を守ることができる大人が子供を授けるが、しかしその子供を産んだのは、その子供を守ることができない子供である。子供を産むことができるということは、残念ながら大人であることの証ではない。そのことをこの小説は訴えている。

 例え子供を産むことができなくとも、大人であれば子供を守らなければならない。例え赤の他人が生んだ子供であっても。
 社会が子供を守ることができなければ、それは社会の崩壊につながる。大人の役割は、子供を大人にすることであって、その子供が大人になった時、だれの子供であってもその子供を守らなければならない。輪廻転生という言葉が浮かぶ。
 果たして今の社会がこのような摂理に従っているのだろうか。私たち死にゆく人間は、生き続ける人間を保護しなければ、未来が無くなるのではないか。そんなことに緩く気づかせてくれるストーリーが展開される。かつて「日本シネ」と叫んだのは、日本の未来である子供たちをないがしろにしつつある現代社会への警告であることがわかる小説であった。

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美化されつつある死を見極めよ 『総員起シ』 吉村昭著

総員起シ〈新装版〉 (文春文庫)

 戦後70年経った今も戦争の記憶は多く書籍に生きている。この事実が私たちの将来に語りかけるのは、人々の死に対する忌避と羨望との葛藤である。
 吉村昭の小説『総員起シ』は戦争の現実を美化するのではなく、まして悲惨さを訴えるものでもない。ただただ、その時の人々の表情を記録したものだ。

 『総員起シ』を読んだきっかけは、アマゾンで購入した長いタイトルの電子書籍「戦後70年記念企画 半藤一利・佐藤優 初対談 あの戦争を知るために今こそ読むべき本はこれだ!」である。この紹介記事には、『総員起シ』の中に、北海道の終戦時の出来事が記載されていることが書いてあった。実は、私の父母は揃って樺太からの引揚者である。しかし、樺太引き上げに関する記述をした小説は数少ない。そのため「これはぜひとも読みたい」と、私はそう思ったのだ。

『総員起シ』は5編の短編小説で構成されている。

 「海の柩」は北海道中央南端のえりも地方の小漁村で、終戦間際に数多の兵士の水死体が浜辺に打ち上げられた出来事が綴られている。そして、その多くが手首を切り取られていたという。そのおぞましい事実の理由が徐々に明らかにされていく。
 「海の柩」を読んでいるうちに、この小説を読むきっかけとなった「あの戦争を〜」の文章が気になった。そこには、船上で手首を切ることなど到底不可能だ、という記述がある。よもや吉村昭の小説に虚偽があったのあろうか。しかし、もう一度「あの戦争を〜」のその部分を読み返すと、それが大きな勘違いであることが分かり、私は安堵した。虚偽の記載をしたのは吉村昭ではなく、吉田満著『戦艦大和ノ最後』という小説であるらしい。やはり、吉村昭は事実を曲げない小説家なのである。

 「手首の記憶」は樺太市民の引き上げ時の出来事だ。私の母から聞き出した当時の記憶と重なるところが多くある。樺太では終戦後もソ連による戦闘が続いていたことは、多くの記録にある通りだ。しかし、この事実は日本国内では今や知られていない事実であることが多くなっているのではないか。

 「烏の浜」は留萌の近郊の沖合で沈没した樺太引き揚げ船「小笠原丸」の実像をあぶり出す。この事実もやはり私が母より聞いた記憶と一致するところが多い。

 「剃刀」は一転して、沖縄戦における日本軍の戦闘の模様を記録している。美化された戦闘の模様を取材により覆し、混乱の中における人間模様を事実として記録したものだ。

 そして、最後の「総員起シ」は、終戦後間際の「伊号第三十三潜水艦」の訓練時における事故を記録した。5編の短編の中では最も長く、そして圧巻である。前4編と異なる何かが吉村昭によって注ぎ込まれる。そう感じざるを得ない。しかし、それは怒りではない、何かの力が注ぎ込まれているのだ。その筆力は、私の臓物まで染み込んでくるようであった。まさしく『総員起シ』は今こそ読むべき本なのである。

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Unixを知る人は読むべき近未来小説 『デーモン』 ダニエル・スアレース著

 デーモン (Daemon) は、UNIXなどのマルチタスクオペレーティングシステム (OS) においてバックグラウンドプロセスとして動作するプログラムを意味する。ユーザーが直接対話的に制御するプログラムではない。

 典型的なデーモンプロセス名は名前の最後尾に "d" が付く。例えば、syslogd はシステムログを扱うデーモン、sshd は外からのSSH接続要求を受け付けるデーモンである。(Wikipediaより)

 FreeBSDのマスコットは実にかわいらしい悪魔である。なぜBSDのマスコットが悪魔くんなのか。それがUNIXのデーモンプロセスからとられていることは明らかだ。しかし、実はもともとのDaemonには別な意味がある。
 もともとのdaemon(守護神)とはギリシャ神話に登場し、神々が煩わされたくないと考えた雑事を処理した存在である。同様に、コンピュータのデーモンも、ユーザーが煩わされたくないタスクをバックグラウンドで実行する。

Freebsdlogo_2  さて、この小説『デーモン』が意味するは悪魔なのか、あるいは守護神を意味しているのか。実はこの小説を読み終わった今も定かではない。スアレースは全く明らかにしないままプッツリと筆を置いているのだ。そして、スアレースの処女小説『デーモン』(2009年)は『Freedom』へと続く。この恐ろしくもリアルなストーリーは、Freedomで完結を迎えるらしい。ところが『Freedom』はまだ邦訳されていなかったりする。どうやらこの小説は日本ではそれほど売れなかったようだ。

 この小説を一言でいうと、1980年代に流行ったサイバーパンクの現代版といったところだろう(サイバーパンクが不明な方はWikipediaに頼ってほしい)。その草分け的小説であるウィリアム・ギブソン『ニュー・ロマンサー』を読んだことがある方はイメージしやすいはずだ。
 当時の近未来SF『ニュー・ロマンサー』と比較すると、『デーモン』はより現実に近い。物語に登場するテクノロジーはほとんど実現しているものであり、そのコアとなるのがMMORPGという一部のゲーマーにとっては現実に存在するサイバー空間であることからも、よりリアルな悲劇としてこの小説に没入できるに違いない。
 例えばイスラム国はyoutubeで兵士を募集する。この小説ではデーモンがMMORPGの仮想空間で兵士を募集する。ドローンあるいはグーグルグラスやグーグルカーに近いアイテムが登場するのも見逃せない。

 翻訳者の上野氏はあとがきには映画化に向けて版権を販売済みと書いている。その後映画化の話は消えてしまったのだろうか。この本を読みながらイメージが難しい部分が多かっただけに非常に残念だ。小説を読むときのイメージ化というは人それぞれ違うはずだ。この小説が現実のIT技術に裏打ちされたものであることを除けば、ストーリーとしてはただのSF小説になってしまう。
 そもそも、IT技術から縁遠い人にとっては、なぜDaemonプロセスが人々の恐怖となり得るのかを理解するのは困難だろうと思う。逆にUNIXを理解している人々にとって、そしてMMORPGの経験があるゲーマーにとっては、イメージしやすいどころか、予言的小説に思えるかもしれない。

 『デーモン』の出版からすでに月日がたち、スアレースが『KILL Decision』というさらに現実に近い小説を書いている。にもかかわらず、日本ではあまり話題になっていないようだ。実はMITメディアラボの伊藤穣一氏が推奨したのはこの『KILL Decision』である。しかしこちらは邦訳がまだ出版されていない。しかたがなく、英文を読めない口惜しさを噛みしめながら、私が読んだのがこの『デーモン』なのだ。
 この小説を書いているスアレースはITコンサルタントの実務経験を持つ。だからこそ現実の恐怖を小説の中から呼び起こせる。『Kill Decision』の邦訳出版が待ち遠しい。

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カイゼル髭は妥協しない 『ヒゲのウヰスキー誕生す』 川又一英著

 朝ドラ『マッサン』が今面白い。といっても、欠かさず見ている、ということではない。画面からたまたまドラマが流れていると見入ってしまう、という程度である。この朝ドラはどうにも誇張しているシーンや事実と違うのではないかと思わせる台詞回しが多いのだ。そもそも、画面の中では、竹鶴(ニッカウヰスキー創業者)を亀山、鳥井(サントリー創業者)を鴨井などと変名しているのだからなおさらである。
 これはNHKの番組上しようがないことではある。「赤玉ポートワイン」も「太陽ワイン」と変えている。古い人がこのドラマを見れば、思わずこう説明したくなるだろう。「昔は赤玉ポートワインというのがあって、まるでジュースのように甘ったるかったのだよ。当時の日本人は本当のワインの味を知らずに、美味しいとい思って飲んでいたんだよ」と。実は、まがい物を有難がって飲んでいた日本人に、本当の洋酒の味を知らしめたのが、竹鶴という一人の男であり、竹鶴テイストであったのだ。
 そこで、やはり本当の竹鶴ストーリーを知りたくなる。竹鶴ストーリーをドキュメントタッチに描いた小説はないものか。外に出て、書店で探すと平台に積まれたこの本を見つけた。『ヒゲのウヰスキー誕生す』というタイトルだ。まさにニッカウヰスキーといえばその代表作はヒゲの男がラベルになっている『ブラックニッカ』である。ウヰスキーのウンチクを語れたない私にとってのスタンダードウヰスキーでもある。『ブラックニッカ』をチビリチビリとやりながら、その誕生秘話を布団の上にあぐらをかきながら読んでみた。
 本のページは、著者が取材のために赴いたスコットランドの車窓から始まるのだ。なるほど、この本は事実を重視しているらしい。そして、著者がかのスコットランドの大地に立ち、芳醇なウィスキーを口にしてから、本題である竹鶴ストーリーへと移っていく。
 竹鶴が大阪住吉の摂津酒精醸造所の門をくぐる。まだ卒業試験を終えたばかりの学生である。学生でありながら強引に、竹鶴は本物の洋酒を造りたいと言い、就職を決めてしまうのだ。
 この本を読み進むと、日本のウヰスキーがなぜ世界の頂点立ち得たのか、そして、サントリーとニッカウヰスキーとの複雑な関係がつぶさにわかって面白い。日本に本格ウヰスキーを誕生させるには、相当な苦労を要することであったのだ。人間の子供が母親の胎内で育ち、その生命が身を結ぶまで長い月日がかかるのと同様に、本格ウヰスキーの産みの苦しみは相当なものである。
 目の前にある琥珀色のウヰスキーの香りを嗅ぎたくなった。竹鶴の偉大さとその執念に感謝しつつ、またチビリと口の中で液体を転がす。そのラベルの男のカイゼル髭を見入りながら、なるほどこれは執念の味だと思うのである。

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地震の後には戦争がやってくる 『瀕死の双六問屋』 忌野清志郎著

 なぜかこの本を読んだ。この本を読むきっかけがなんだったか、なんて覚えていないけど、いや思い出した。確か誰かがブログで忌野清志郎のこの本に載っている文章を引用したのだった。思い出したぞ、確か忌野清志郎は戦争に反対していたし原発にも反対だったのだ。引用していたのは次の文章だったはずだ。

157ページ
 地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる。自分は安全なところで偉そうにしているだけ。阪神大震災から5年。俺は大阪の水浸しになった部屋で目が覚めた。TVをつけると5カ所ほどから火の手がのぼっっていた。「これはすぐに消えるだろう」と思ってまた眠った。6時間後に目が覚めると神戸の街は火の海と化していた。この国は何をやってるんだ。復興資金は大手ゼネコンに流れ、神戸の土建屋は自己破産を申請する。これが日本だ。私の国だ。とっくの昔に死んだ有名だった映画スターの兄ですと言って返り咲いた政治家。弟はドラムを叩くシーンで僕はロックン・ロールじゃありませんと自白している。政治家は反米主義に拍車がかかり、もう後戻りできやしない。そのうち、リズム&ブルースもロックも禁止されるだろう。政治家はみんな防衛庁が大好きらしい。人を助けるとか世界を平和にするとか言って実は軍隊を動かして世界を征服したい。
 俺はまるで共産党員みたいだな。普通にロックをやってきただけなんだけど。そうだよ、売れない音楽をずっとやってきたんだ。何を学ぼうと思ったわけじゃない。好きな音楽をやっているだけだ。それを何かに利用したいなんて思わない。せこい奴らはちがう。民衆をだました、民衆を利用していったい何になりたいんだ。予算はどーなってるんだ。予算をどう使うかっているのはいったい誰が決めてるんだ。10万円のために人を殺す奴もいれば、10兆円とか100兆円とかを動かしている奴もいるんだ。いったいこの国は何なんだ。俺が生まれて育ったこの国のことだ。君が生まれて育ったこの国のことだよ。どーだろう、……この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺たちはジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ。

 この本、実はTVブロスに載せた忌野清志郎のコラムをまとめたものだ。そしてここに紹介した文章は、ブロスではボツ原稿になった文章だった。タイトルは「日本国憲法第9条に関して人々はもっと興味を持つべきだ」という長い長いタイトルだ。忌野清志郎という人は普段は普通の人だったらしいけど、この本を読む限りはそうではなさそう。何と言ってもロックだったんだね。文章がハチャメチャなところもロックを感じさせてくれるし、文章の最後に決めゼリフを使いたがるのもロックなんだろうと思う。といいつつ、僕はロックをほとんど聴かないし、カラオケで歌うのはいつも演歌なんだけど。
 音楽を聴く時はほとんどジャズだし、たまにサザンとかドリカムとかしか聴かない。軟弱なんだ。よく考えたら、サザンが出たあたりから日本のロックは廃れたような気がする。日本にはロックは似合わないよ、特に今となっては。反体制的な歌詞を歌えばすぐ左翼にされてしまうし。みんな親方日の丸になってしまって、反体制的な意見を言うと、非国民扱いされてしまう。
 つまり、忌野清志郎の予言はバッチリ当たっているということだ。政治家は民衆を騙そうとしているのがはっきりわかるのに、マスコミはそこをつつかない。マスコミも政治家も最近では経済界も民衆を騙そうとしている。そうやっていつか民衆が反駁して政治不信に陥って、やがて軍部が共産党員と一体化して、どんどん軍国主義化していったのが戦前の日本だったのだけど、また同じことをやりそうだな日本国民は。

 もうロックは瀕死の状態だ。双六問屋だけじゃなかったぞ瀕死なのは。奴は15年も前に気づいていてそいつを本にして今の俺らに知らせてくれているんだ。しかし、そんなことを考えていてもしょーがない、今夜はドリカムのべたべたの曲を聴いて寝ることにしよう。
それじゃあ、おしまいのページにて、また会おう。

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真実を知る恐怖から逃避し、真実を知ることを病気にしたがる病気 『ボラード病』 吉村萬壱著

ボラード病

 この本を手にした時は図書館に予約をしてから既に2ヶ月が経っていた。そして手にした時は、一体なぜこの本を読もうと思ったのか、もう忘れているのである。吉村萬壱という著者名も初めて見るし、『ボラード病』というタイトルからはその本が恋愛小説なのかミステリーなのかという思いを巡らせながら第1ページ目を繰ることになる。
 はたしてその文脈からは、全く先が読めないのであった。一人称で語られる主人公は小学5年生の少しゆがんだ女の子であるらしいこと、そして、その母親は少し精神的に偏狭であることがわかる。いずれの人物も滑りを持った金属に触れた時のような違和感があるのだ。登場する学校の友人や担任の先生、あるいは隣人や出会う人々が、大栗恭子という小学5年生の少女の口から語られるたびに、普段接することのない何か特別なもののように扱われるのだ。そしてその違和感の表面が、ページを捲るたびにあらぬ方向に広がりを見せるのである。

 この違和感は、実は最近になって私たちが感じるようになってきたことではないだろうか。例えば、SPEEDIに関する報道である。
 朝日新聞デジタル2014年10月8日の報道によると、原子力規制員会はSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を原発事故時の避難判断の基準として使用しない方針を決めたという。この報道をしているのは、朝日新聞だけだ。独自の原発報道を続けている東京新聞もこのことは報道していないのだ。
 そして一方では、産経新聞ソウル支局長が韓国政府から訴えられたことについて、日本の一部の人々は韓国大統領を避難する新聞報道に溜飲を下げる。そして、多くの人々は自分たちとはほんとんど関係が無いのだが、しかしある集団の一員となることで不安から解消され意味のない希望を抱こうとしているのである。

 私たちがもつこのような違和感は、この小説の表層に現れている。それは、原発、放射能、フクシマ、東京電力、などの、本来はこの小説のストーリーの基礎となる単語が本文に一切登場しないことからくるのだろうか。それはあたかも、朝日新聞が叩かれその声が小さくなりフクシマや原発、放射能といった単語が息絶え絶えとなっている現実を裏写ししているかのようである。

 フクシマはどうなっているのだろうか。放射能の影響は本当にないのだろうか。成功する見込みの薄い凍土遮水壁を継続し、人々を守るために設置されたはずのSPEEDIを使用しないという判断はどのような基準に基づくものなのだろうか。震災の復興、電力の自由化、成長戦略の実行実現、人々がこれらの約束を忘れ、検証もせずに韓国や中国を叩くことに関心を向け続けているのは何故なのだろうか。

 この小説には破綻している現実社会を投影するシンボルとして「ウソ」が登場する。大栗恭子もウソをつきそして多くの人々がウソを言う。そして、大栗恭子の母はそのウソに気づいていながら気づいていないフリをする。この小説の舞台である海塚市では、ウソに気づいている人物は病気であるとみなされる。つまり現実のネット社会で言われる「放射脳」というやつである。この小説が抱える違和感の根源は「ウソ」なのだ。その「ウソ」は真実を知らせないことで成し遂げられる消極的「ウソ」である。そして、どうでも良い真実を覆いかぶせて、重要な真実を皆の目から見えないようにすることである。

 しかし、最後までこの「ウソ」を覆い隠すことはできない。おそらく将来のどこかの時点で放射能の影響が明らかになったとき、再び私たちは騙されたことの気づくに違いない。敗戦の日以来多くの日本国民が騙されていた事を知ったように。それは、田原総一郎氏が言っていた日本の悲しい事実である。日本政府は国民を騙すことで存続を続けているのである。そのことを、冷やかに、そして政治家がよくやるように直接関連する言葉を使わずに、この小説のモデルがなんであるかを指摘できないようして、そこに真実を溶かし込みながら生成されたのがこの小説であるといえるのである。

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その楼閣の墓場に紡ぐ読書論 『書楼弔堂 破曉』 京極夏彦著

書楼弔堂 破暁

 表紙を観るとそこには何とも、おどろおどろしい日本画があった。これは幽霊の絵だ。本を手にしたその瞬間、外見は陰鬱な書物なのである。なんだか読んだら祟られそうなのだ。さらに厚みがあるのが良くない。暗い世界にその厚み分だけ引き摺り込まれるのか、と考えるとますます陰鬱な気分になるのであった。
 しかし、読んで見てわかった。果たしてその内側は明るい書物であった。湿り気など微塵もない。言葉回しは古い時代を感じさせる。何やら昔気質の難しそうな漢字がそこ彼処に登場するのである。この本は明治の末期かそこいらに書かれたものではないかと錯覚する。
 はたして物語の時代背景はおそらく明治の期である。主人公は武家から平民になった男だ。名を高遠という。この男はすることがない。それで書物を物色しながらぶらぶらとしているのだが、ひょんなことから書楼弔堂にたどり着く。
 この「書楼弔堂」というのは確かに本屋であるのだが、外見からはとても本屋とは思えない。三階だての楼閣なのだ。そして中に入るとますます怪しい。何千本という蠟燭がゆあゆあと灯っている。こんな薄暗い本屋では、現代ならば早速クレームがつくに違いない。
 もちろん本屋ではあるからには、壁面一面に本の背表紙がこちら側に顔を向けている。その夥しい数に圧倒される。まるで本の墓場である。そのとおり、そこは本の墓場なのであった。

 この本の墓場に色々な人がやってくる。それがなんと、泉鏡花とかジョン万次郎とか勝海舟とかなのであった。
 そこがこの本の面白いところだ。そしてそこで繰り広げられる会話がまた面白い。ページに解き放たれるそれは読書論でありそして治世のことでありそして道徳でもある。道徳と仏教そして哲学のはざまに立ちすくんだ井上円了を前にして、弔堂の主人はこんなことを話す。

252ページ
「見て見ぬ振り、云わぬか花の約束ごと。それを解さぬは――愚か者。そう云うことでございますよ。ないものはない。なしと識って尚、あるように振る舞う――この国にはそうした文化があったのです。それは、この国の良きところ、残すべき在り方だと私は思いまする。ところが、その文化か失われてしまった。あるかないかの二者択一、結局ないものもあるように考えてしまう。それこそ蒙昧、迷妄と云うもの。思うに、明治の世になって、殊、そちらの方面ではそうした愚か者が増えてしまったようにも存じます。ならば、この明治の世こそ、迷信蔓延る世と云えるのかもしれませぬ。これでは異国の方は元より」
 江戸の通人にも嗤われてしまいましょうと主人は云った。
「その意匠に託せるものならば、畏怖は娯楽に、愚かしさも豊かさに転じましょう。利用せぬ手はございますまい。その化け物を看板に掲げ、愚かなる迷安を笑い飛ばしてやるのも一興ではございませぬか」
「これが――妖怪学の象徴となるか」
 圓了は、何かを呑み込んだようだった。
 その後井上圓了は「妖怪学」を広く世に問い、やがて妖怪博士と渾名されることになる。

 弔堂を舞台としてこのような会話が繰り広げられる。しかし、その舞台は一幕ではない。臨終、発心、方便、贖罪、欠如、未完と六つの場面がそれぞれの歴史上の人物を登場させながら繰り広げられるのだ。

 会話の面白さと言えばやはり舞台だ。誰かがこの『書楼弔堂』を舞台にしてくれぬのだろうか。いつかはこの弔堂の主人のセリフを生の声で聴いてみたいものである。きっと舞台になって欲しいと、そう思わせる小説であった。

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戦争の記憶と密やかな生活 『小さいおうち』 中島京子著

小さいおうち (文春文庫)

 本の表紙をめくる。すると、老女の淡々とした話から始まる。どうやらこの老女は昔話をしているようだ。どうやら自慢話のようでもある。

 読み進むうちに、この老女は自分の過去を書籍にしようとしることが分かる。なんとも無謀ではないか。この老女は、実は出版社に騙されているのではないだろうか。そもそも、話の内容がパッとしない。こんな話を書籍にしても売れるわけがないではないか。

 さらにこの本を読み進む。老女がどのような人物であるか大体わかってきた。この老女は昭和5年に山形の尋常小学校を卒業し、同時に東京へと奉公に出されたらしいのだ。最初は小説家の家の女中になったという。

 この老女は奉公中にタキちゃんとか、タキさんとか呼ばれたらしい。だからこれからは私も老女のことをタキさんと呼ぶことにする。
 タキさんは小説家の家に奉公した翌年に別な家に奉公することになる。その年、昭和6年に奉公したのは浅野家だったという。浅野の旦那は収入が少なくしかも酒飲みだったようだ。
 この時の奥さんが滅法美人であったとタキさんは絶賛している。名前を時子さんという。残念ながらこの時子さんの旦那さんは翌年に亡くなってしまう。時子さんには恭一という幼い子供がいるというのにむごいことである。ところがタキさんは、この時、旦那さんが亡くなってよかったと思ったようだ。おそらくタキさんは時子さんの不遇を嘆いていたのだろう。
 タキさんはそのまま時子さんについていく形となった。いったんは浅野家の実家に引き上げる。やがて時子さんは平井氏と再婚する。もちろん、タキさんも時子さんについて平井家に奉公することになったわけだ。昭和7年のことだ。このとき時子さんは22歳、タキさんは14歳である。

 そして3年後、つまり昭和10年に平井家は家を新築する。洋風でこじんまりしていて、屋根が赤い。この家が、タキさんが後の10年間を過ごす「小さいおうち」となった。

 なぜ私が、くどくどとこの小説の時系列をつけて述べるかというと、ここにしっかりと伏線が敷かれているからだ。この小説の地の文章であるタキさんの手記では、その出来事が昭和何年に起こったことなのかを記録している。時々あいまいな記憶もあるようだが、おおむねあたっているようだ。この時系列を意識しながら読むと、恋愛小説というよりも、戦前昭和を語る歴史小説にも読めてくるから不思議だ。
 昭和16年の年末に家族でスキーに行ったり、昭和17年に小規模な東京空襲があったり、その翌年は東京市の市議会議員がいきなり首になったり。昭和19年4月ごろには山形の神町若木原の飛行場建設が始まったという話も登場する。この飛行場建設では、もっこ担ぎに中学生が徴用されたそうだ。
 こんな風に、戦時下の小さなできごとがタキさんの話にはちりばめられている。そして、おしまいのページに近づくと、徐々にミステリーが展開する。

 語り手は老女だし、話は昔の話であるが、ストーリーの構成は新鮮であった。ただし、この小説は読み手の意識で結構その印象が変わると思う。

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夢は買うものではない、夢は追うものだ 『夢を売る男』 百田尚樹著

夢を売る男

 『永遠の0』の映画化、そしてNHK経営委員となって、脚本家という舞台の影から表舞台に飛び出した感じの百田尚樹氏の小説である。そんな百田氏が書くこの小説も、面白くなかろうはずがないではないか。

 ところで、百田尚樹の本を読むたびにいつも思うことがある。なぜ百田小説はジャンルを変えながらも毎回ヒット作を創出することができるのだろうか。
 売れる小説にはストーリーとしてのある種のセオリーがあるという。主人公の成長と苦難の克服と成功。これを守ればそこそこ読者を引き込むことができるというのだ。だからといって、このセオリーを踏襲すれば売れる小説が書けるというわけでもない。百田氏の小説が毎回ヒット作となるのは、小説セオリーを土台とした別の何かがあるはずだ。

 7年ほど前の事だったと思う。会社で先輩から一冊の本を勧められた。その本は会社を退職した大先輩が書いたSFファンタジー小説なのだという。なんちゃら賞というあまり聞かない文学賞を受賞した作品らしい。「面白いですか?」と聞くと「まあそこそ。SFと思われるけど本人はファンタジーというかお伽話として書いたらしい」という答えが返ってきた。そして、にわかに小説家となった大先輩をまるで我社の誇りであるように誉めそやし、次の結論を述べるのを忘れてはいなかった。「だから一冊買ってね」と。

 会社の近所にある書店に立ち寄り、私はその本の題名を告げて購入を宣言してみた。入荷していないので取り寄せになるそうだ。お取り寄せ?。中規模の書店ではあるが、たしかにその書店には売れない本を置くスペースはなさそうだった。
 数日後、若干の期待を込めて手に入れたその小説を読んでみると、どこかで見聞いた話が展開するだけでワクワク感はまったくない。この小説は売れないであろうと思った。それでも、文学賞を受賞し小説を出版したという事実だけは、大先輩の実績として厳然と残る。数多の人々が小説家になろうと蠢いていることを考えれば、このにわか小説家においても、小説家としての才能はあったのだろう。
 ところで、この賞をめぐっては面白い逸話がある。伊藤計劃が書いた『虐殺器官』を最終候補作まで上げていながら受賞作としていないのだ。つまり、文学賞といえども読者が望むものが受賞するわけではないらしい。では一体なんのための文学賞だったのだろうか。受賞した事実と、その小説の力量にはあまりに乖離がありすぎる。

 『夢を売る男』では、このような出版社の新たなビジネスモデルを、出版社の側から見たストーリーとして綴っている。おそらく、かの大先輩も同じように、出版社から架空の才能を認められながら、お金を払ってでも小説家になる道を選んだのではないか。『夢を売る男』を読みながら現実の大先輩がたどった道のりを、その頭上から俯瞰したような気分になった。
 そんなにわか小説家たちの勘違いと、荒唐無稽な夢を餌にする出版社の妖美を、実に面白い小説として世に問うているのがこの『夢を売る男』だ。この小説の中には世間一般人では小説家になれない理由が、山ほど詰まっている。つまり、百田氏なぜ小説が売れないのかを突き詰めて考え、そしてその事実よって歪んだ出版業界の姿をこの小説に著している。逆に言えば、百田氏は売れる小説がなんであるかを知っているという事だろう。この小説を読むと、まさに百田小説がジャンルを変えながらヒットを飛ばせる理由がよくわかる。

 そして、最後の最後に、実は夢は叶うのだと、一気に読者を感動のどん底に突き落とすのだ。この構成は見事という他なかった。夢は金で買えるものではない。ただ単に追い続けるものだ。百田氏はそう言いたかったのだろうか。

 最後に、これだけは書いておこうと思う。小説家としての百田氏自身は、この小説の中にいずれ消え行くバカな小説家として登場する。どんなふうに登場させているのかは、実際にこの本を読んで楽しんで欲しい。

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2013年読んだ本ピックアップ

あけましておめでとうございます。
今年も年頭に、昨年読んだ本のなかで面白ためになった本をピックアップします。
読んだ本の冊数が今年は少なく、合計58冊でした。カッコ内は一昨年の数字です。

◆心のビタミン 11冊(43)
 1.小説     7冊(36)
 2.エッセイ     4冊(7)
◆思考の炭水化物 28冊(24)
 3.ビジネス     14冊(8)
 4.自己研鑽     14冊(16)
◆知識のタンパク質 19冊(36)
 5.歴史と未来・科学     13冊(26)
 6.ノンフィクション     6冊(10)

今年は以下の本をピックアップしました。ブログ記事で紹介していない本もありますが、機会があれば再読して紹介したいと思います。

1.小説

『百年法』 山田宗樹著
日本の少子高齢化をモチーフにしたディストピア小説。
もし人類が永遠の生を得たらどうなるか?
そういえば最近「長生きをしたい」というのをあまり聞かなくなった。

2.エッセイ

『第2図書館補佐』 又吉直樹著
コメディアンが書く本なんて…、と思うなかれ。
又吉さんの日常のなかに潜むウィットに富んだエッセイ。

3.ビジネス

『企業が「帝国化」する』 松井博著
アップルやグーグルといった無国籍企業は何を支配しているか。というよりも、それ自体がひとつの国家に近いという話。

4.自己研鑚

『知の逆転』 ジャレド・ダイアモンド他
何度でも読みの直したくなる本。この本から読むべき本をたどる事ができる。

5.歴史と未来

『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』 森山優著
なぜ太平洋戦争という無謀な戦争に至ったか。いったい誰がそれを決断したのかが判る。
実際には誰も決断を下していなかったのだった。

6.ノンフィクション

『カウントダウン・メルトダウン』 船橋洋一著
今年最も面白かった本。311で起きた原発事故。その対応に追われた現場はほぼ戦争状態だ。なぜ日本はアメリカの支援を一度断ったのか。なぜSPEEDIが動かなかったか。疑問に思っていたことのほとんどがこの本で解決する。

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