読書:知識の蛋白質

歴史、科学、社会、政治

いまこの三冊の本を読まなけらばならない理由

 昨年は読書収穫の多い年だったと思う。いろいろ事情があって多読はできなかったもの、それだけに質の高い書籍を読むことができたのだ。それでは、まさに多くの方にお勧めしたい三冊の本をこの場を借りて紹介しよう。

1.「死すべき定め」アテゥール・ガワンデ著、みすず書房

 この本は、2回読んでいる。私は1冊の本を繰り返して読むことがあるが、そのような本はまさに自分にとって価値が高いものと感じるからである。人間が死に直面した時の尊厳、あるいは生存と死の権利をいかに扱うべきか、というのがこの本のテーマである。私たちは、生きる理由を求めなければならない。と同時にそれは死ぬ理由の裏返しである。

 私たちは、戦後から実は畳の上では死ねない、という不思議な世界に住んでいる。それが正しいことなのかをこの本の著者は問うているのだ。

2.「セカンド・マシン・エイジ」 エリック ブリニョルフソン 著/アンドリュー マカフィー著、日経BP社

 この本は、一度図書館で借りて読んだ後に、キンドルの電子書籍を買って再読した本だ。つまり、今後も何度かこの本を読むだろうと考えている。

 これまでも、レイ・カーツワイル著の「ポスト・ヒューマン」をはじめとして、AIやロボティクス関連の書籍を読んできたが、人類とマシン(この書籍ではAIやロボティクスをセカンドマシンと呼ぶ)との関係を包括に捉えた本は、この本以外にはないのではないかと思う。まさに、ニコラス・カーの「クラウド化する世界」の技術的拡大版である。

3.「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社

 これは現在読んでいる本である。のっけから面白い。そして、最後はおそらく人類の死とAIとの関係性をうまく説明してくれるのではないかと期待している。さあ、今日もこの本の続きを現実の布団の上で、お酒をちびりとやりながら読むのである。

 一見するとこれらはまったく脈絡のない書籍の集まりに見えるかもしれない。しかし、これらに通底するのは、生命とは何か、という問いである。しかし、生命とは何かをとらえるためには、3冊程度の本を読んだだけで理解できるわけではない。おそらく、いずれいつの日か「生命、エネルギー、進化」(ニックレーン著、ミスす書房)を読まねばなるまい。まだまだ、冒険は続くのである。私の生命が続く限りは…

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戦争のリアルⅡ、『戦争するってどんなこと?』 C・ダグラス・ラミス著

 いま、日本で安全保障に関する議論が膾炙されている。「抑止力」「国民を守る」「積極的平和」など、もったいぶった理由をつけ、そして、しまいには平和維持のため、などと真逆のことを述べるものも多くなってきた。憲法違反かそうではないのか、何が武力行使にあたるのか。どうなったら自衛隊は武力を行使できるのか。
 しかし、ここに欠落した議論があった。それは、「戦争とは何か」ということだ。結局、現実的な戦争については誰も述べなかったのだ。当然なのかもしれない。今や戦争体験者は殆ど日本の国土から消え去ってしまっているのだ。戦後生まれの政治家が、戦争のリアリティを語れないのは当然なのである。
 そこには大きな違和感があった。だからこそ、多くの国民は安保法案に反対した。その違和感はつまり、安保法案が戦争をより身近なものにすると感じたからだろう。多く安保法案反対者は戦争を忌避するべきものと感じている。そして、安保法案賛成派は、戦争は人類として避けられないものと考えているのかもしれない。しかし、双方とも、本当の戦争を知っているのだろうか。本当の戦争について知らないから議論がかみ合わないのではないか。戦争するとははたしてどういうことなのか。それを知るために私はこの本を読んでみた。

 この本では、まず戦争の定義について語られる。
※この本は中学生に対する講義を書き下ろした形式となっており、本文中のダッシュ“───”以降は、学生の質問となっている。

12ページ
 戦争の物理的な定義にかんしては、あんまり議論がありません。戦争とは組織同士の集団暴力だということは、だいたいみんなが認める定義です。ところが、戦争を法的に定義しようとすると、意見が分かれます。集団暴力でも合法でもなければ戦争とは呼ばないで、暴動、テロ、犯罪行為と呼ぶ、という考え方もあります。合法でなくても行動が同じなら戦争だという考え方もあります。誰もが賛成する法的な戦争の定義はありません。
 ところで、日本国憲法の第9条には「国の交戦権は、これを認めない」と書いてあります。交戦権とは、国が戦場で人を殺し、財産を破壊する権利です。
───人を殺し、財産を破壊する権利?
 はい、世界的に認められている権利です。この権利の背景にあるのは、「近代国民国家は合法的に暴力を使う権利を独占しようとしている組織である」という考え方です。これは近代国家、つまり今世界中にある国々の定義の一つです。

 実の所、自衛権は日本国憲法でも認められているが、交戦権は認められていないというのは自明の事なのだが、一部の人々にとってこれは矛盾していると捉えられているようだ。しかし、自衛権と交戦権は全く異なる。そのことは本書を読むとわかってくる。

13ページ
 近代国家が合法的に持つ暴力は3つあります。警察権と刑罰権と交戦権です。
 警察権によって、警察官はピストルを持っている場合によって人を狙って撃っても、任務として行った場合は合法です。容疑者を捕まえるために銀行強盗を撃っても、犯罪にはなりません。国家が警察という、人に対して暴力を使う権利を持っているからです。
 近代国家が持つ2つめの合法的な暴力は刑罰権です。国家は裁判所で有罪判決が出た人を監禁することができます。ふつうは人を監禁すると犯罪になりますが、裁判所が有罪と認めた人を国家が刑務所に監禁するのは刑罰です。数年間閉じ込めて外に出さない(これも暴力です)権利が国家に認められているからです。国によっては、監禁するだけではなく、殺すこともできます。裁判で死刑判決が出た人を殺す権利を国家に認めている場合です。死刑を廃止した国は多いですが、日本は廃止していません。日本では刑罰として国家が人を殺しても、殺人にはなりません。
 3つめは交戦権で、戦場で人を殺す権利です。国にこの権利があれば、兵士が戦争で人を殺しても、それは殺人罪になりません。けれども、日本国憲法第9条には、「交戦権は、これを認めない」と書いてあります。

 「集団的自衛権は国際法によって認められている。当然、日本も集団的自衛権を持っていて、今は法律上それを行使しないだけだ。」
 かつて政府も一部の評論家もそのように語っていた。しかし、集団的自衛権の必要性について、同盟国を守るためと語るばかりで、具体的な話になると一向にらちが明かない。当然である。集団的自衛権は交戦権を前提としているのだ。実際に戦闘になったら、交戦規程(自衛隊では部隊行動基準)に則って相手方に攻撃を加えるのである。これは交戦権の行使以外の何物でもない。ここを語ると、安保法制は憲法違反であることが明白になる。だから新三要件などとあいまいなもので議論をとどめていたのかもしれない。

 日本は憲法9条によって交戦権を禁止している。そのために、軍隊を持たずに自衛隊(警察予備隊)という、重火器を使用する警察部隊を擁立したのだ。この矛盾した組織は、装備とその役務に乖離がありすぎる。ここが安保法制を分かりにくいものにしている。政府としては何とかして自衛隊を軍隊と同じ役務につかせたい。そうして、アメリカと同じ部隊で作戦行動に参加させたいのだ。これは、アメリカ側の要請なのだろう。しかし、軍隊ではない自衛隊の行動は、警察権の及ぶ範囲でなければ武力が使えない。なぜなら、日本には軍法も軍法裁判所もないからだ。
 日本の自衛隊は軍隊ではない。反論があるだろうか。端的に述べるなら、自衛隊は人を殺すという本来の軍隊の目的を所持していない。人を殺す訓練を受けていない者が戦場に入り込めば、どのような悲惨な事態になるか、戦争を知らない政治家の想像力は及びもしなかったようだ。
 この本の著者であるダグラス・ラミスは、軍隊というものについて、その実体験から次のように語っている。

32ページ
 兵士の仕事は敵を殺すことです。
 日本では戦争というと、国のために死ぬとか、命をかけるとかのイメージが浮かんでくるかもしれません。第二次世界大戦のときの太平洋戦争でたくさんの兵士が亡くなりましたから、そういう歴史的な体験の影響だと思います。けれども、死ぬのは兵士の仕事ではありません。ぼくは3年間海兵隊で任務についていて、予備役の期間も入れれば10年間になりますが、その間死ぬ訓練をしたことはいちどもありません。死ぬとすれば、それは失敗で、訓練が足りなかったか運が悪かったということです。
 ほかの組織と違って軍の特徴は人を殺すことです。ですから兵士の仕事は殺すことで、もちろん、反対に相手に殺されるかもしれません。
 人は人を殺すことに対して心の中に抵抗があります。普通の社会で育てられた人なら、簡単には人を殺せません。相手を「殺せ」と言われたからといって、なかなかできるものではないのです。ですから、兵士の訓練では、死ぬかもしれないという恐怖を愛国心などで乗り越えるようにする訓練とともに、相手を殺せるように、殺すことに対する抵抗を乗り越えるための訓練をします。この訓練を受けることから、兵士の仕事がはじまります。

 この後に本書では、人にとって人を殺すことがいかに難しいことであるか。そして、戦争において民間人を殺さないことがどれだけ困難であるかが語られる。もし今後、大きな戦争となった時は、大量破壊兵器によって多くの民間人が殺されることになる。それは戦争というゲームに参加した時点で確定されたことなのかもしれない。

51ページ
 当然ですが、都市への無差別空襲の犠牲者は殆どが一般の人々です。  そして広島、長崎へ原爆が投下されました。究極の無差別殺人です。
 現在に至るまで20世紀の戦争は、非戦闘員、一般の人々を兵士よりもずっと多く殺しています。戦争の死傷者の数を知ることは非常に難しいです。戦死者の10%だけが兵士で、90%が民間人だとよく言われますが、その数字を疑う人もいます。第二次世界大戦による戦死者は5000万から8000万人で、そのうち民間人の数は3800万から5500万人という推定があります(この数字には餓死と病気による戦死も入っています)。それなら68~75%が民間人になります。

 よく、戦争反対を唱えると「では中国に侵略されても良いのか」「日本国民が蹂躙されても見過ごすのか」など、しまいには「お花畑」な思考などと言い出す。しかし、戦争の現実を観ずに、勇ましさや強さを自分に投影してあたかもそれが人々を被害から守る唯一の手段であるように語るのは、まさに戦争ロマンチシズムと言わざるを得ない。
 著者はこののちに、多角的に戦争の現実を語る。大量殺戮兵器、軍需産業に支えられる経済、難民の発生、テロとの戦いは戦争なのか、戦争によってもたらされる人類史上最大の不本意や理不尽を語り、非暴力抵抗が決して不可能な行動ではなく、現代社会だからこそ実現可能な、むしろ人間的なあり方なのだと語る。

 かつてフランス革命を橋頭保とし、民主主義は世界中に広まっている。その後、民主主義国を謳う先進国は植民地を作り、経済的な繁栄を求めてきた。それは武力によってである。やがて、他国の国民を武力で支配するという植民地は地球上から消えて、現在はその地域の利権を獲得するために武力が行使されている。
 これは、武力に守られた権力構造が、地域という狭い範囲から、国家間という広い範囲に拡張されたに過ぎない。民主主義による武力行使は、国家内での武力対立を平定する手段としてのみ有効に機能するが、国と国との間に発生する紛争に対しては全く無効なのである。つまり、国家間民主主義はいまだに成立していない。だからこそ、話し合いで解決しようとする前に、武力を行使しようとするのであり、国際法では交戦権が認められているのだ。
 遠い遠い人類の未来の中で、いずれ国際的な民主主義が確立される時が来るのだろうか。物事は武力でなく話し合いによって解決されるべきである、という日本国憲法の理念が、世界の当然の権利と認めれられる時がいつか来るのか。
 この本は、現在の人類が実はまだまだ未熟であり、民主主義国の国民が独裁政権を持つ国を嗤える状態ではないことがよくわかる本なのだ。果たして、私たち日本人は、人類のこの遠い先の世代に受け継ぐべき、あるいはそのころには常識となっている平和の理念を、ここで放棄しても良いものだろうか。おそらく、日本人は終戦当時のように、もう一度間違った選択をしてしまった事に、苛まれるのではないだろうか。

28ページ
 たしかに、日本国憲法は世界でも珍しい憲法です。交戦権を認めないという言葉はほかの国の憲法にはないと思います。軍隊を持たない国はあります。たとえば、コスタリカは軍隊を持っていませんが、憲法に交戦権を持っていないとは書いてありません。ほかにも軍隊を持たない国はあります。小さい国は軍隊を作っても勝てませんから、軍隊があってもしょうがないのです。でも、交戦権という権利を放棄している国は珍しいのです。
 ですから、日本の平和憲法を非常識だという人もいます。その通りです。では、常識はどういう世界をつくったでしょうか。
 すべての国家には正統な暴力の権利として交戦権がある、という考え方は20世紀の歴史をつくりました。それは、国家の暴力によって殺された人が史上最大の世紀となりました。新記録です。これほど人々が政府によって殺されたことは、歴史の記録が始まってからありませんでした。昔から戦争はありましたが、20世紀は人を殺す技術がどんどん進んで大量破壊兵器によってけた外れに多くの人が殺されました。また、軍需産業がこれほど巨大化したのも20世紀でした。

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経済成長という幻想、平和憲法維持というはかなさ 『だから日本はズレている』 古市憲寿著

だから日本はズレている (新潮新書 566)

 以前読んだ『絶望の国の幸福な若者たち』。あの本は時代の違いを背景として、おじさんたちによる若者論がどのようにずれているかを語っていた。過去から現在に至る時系列の中で、どのようにして若者論が変わってしまったのか。つまり、高度成長期における若者論を現代の格差社会の中で語るのは間違っている、という論調だった。
 そして、今回はまた切り口を変えて語っているのだ。日本という国家に対する見方がおじさんと若者では、すっかりずれてしまっている、と言うわけだ。
 おじさんである側から読んでも納得できる部分が多い。なぜなら、この本の中に登場するおじさんたちとは、日本の国家の中枢となる政府であり政党であったりするからだ。おじさんは結局それらのメタファーとして語られているのだ。

 それでも、ある側面では理解できない部分もある。例えば、以下のような。

212ページ
 現在の多くの20代はもはやバブルをを知らない。物心ついた時には日本の経済成長は終わっていて、彼らは多感な青春時代を平成不況と共に過ごしてきた。
 かといって、現代の若者は日本の貧しさを知っているわけではない。むしろ、生まれた時から充分すぎる物質的な豊かさを享受してきた。社会が成長していくことに対してリアリティは持てない一方で、彼らにとって日本の豊かさはデフォルトなのだ。

 実は、この部分を20代である若者に聞いてみた。実際に読み聞かせてその感想を聞いてみたのだ。その答えを聞いて納得いった。彼はこう答えたのだ。
「確かに僕らにとって豊かさはデフォルトだね。そういのは昔の人には理解できないかもしれない。うーん、例えばだけどね、昔の人から見れば憲法9条を改正するというのが非現実的に思えるでしょう。9条を改正するということに実感がわかないというか。現在の若者たちが置かれている立場をおじさん達が理解できないというのは、それと同じことじゃないかな」

 なるほど、そういう事なのである。私たちは平和憲法があるおかげで高度成長期を享受してきた。そのことが前提となっていたのだ。今は、高度成長期ではないし、今後も経済成長を期待できない。結局、現在の若者にとっては経済成長などないことが前提なのだし必要性を感じないということなのか。
 つまり、見えているベクトルが変わってしまっている、ということなのだろう。これはある意味で、若者に組み込まれた新たなベクトルである。彼らが追求する幸福というのは経済成長ではない。そして平和憲法の維持も彼らの幸福には寄与することが、実感としては持てないのである。
 いや、まてよ、むしろこんな風に分かったつもりになることが、つまり現代の日本の社会を若者たちとはずれた視点で見ていることに他ならないのかもしれない。そう思いながら、おしまいのページまで読み進むのも良いかもしれない。

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The computer is the brain. 『思考する機械 コンピュータ』 ダニエル・ヒリス著

文庫 思考する機械コンピュータ (草思社文庫)

 最近すこし驚いたことがある。それはなんと、既に21世紀になってから14年が過ぎ去ろうとしているということだ。こんなことを書くと、むしろ読んだ方が驚いてしまうのかもしれない。しかし、ある程度の年齢の方は同じ感慨に更けることができるのではないか。そういう思いでこの書籍に対する感想を書いていみたいと思うのだ。

 この本の出版は2000年10月である。そこで、本題に入る前に、コンピュータの歴史上、2000年はどのような年だったのかを思い出してみたい。
 当時は20世紀が終わる頃、ITバブルが終焉を迎えようとしていた。そのころCompaqやSunMicrosystemsはまだ健在だったけど、すこしずつ衰退して行く感じが漂っていた。ちょうどイノベーションのジレンマが発売されたころで、新しいイノベーターの立ち上がりが見え始めたころだった。
 Sunは「The network is the computer.」といっていたのを思い出す。そのころMicrosoftはローカルディスクはどんどん容量が大きくなりいずれネットに接続する必要はなくなると述べていた。つまり、Sunのコンセプトを否定していたのだ。しかし、SunMicrosystemsが目指す方向は間違っていなかった
。Sunが衰退したのは方向性が間違っていたからではない。彼らはイノベーションの罠に嵌ってしまったのだ。

 1995年に登場したAmazonや1998年に登場したGoogleはいまや市場を牛耳る巨大プレーヤーだ。まさにネットワークが産業構造を変えたというべきだろう。AmazonやGoogleは2000年台に黎明期を迎え、それまで赤字続きであったビジネスモデルが黒字に転換しだした。いずれも、ネットワークの規模が拡大し、それとともに彼らの市場が一気に拡大したのだ。いま、果たしてスタンドアロンで動作させて役立つコンピュータがどれだけあるだろうか。そう考えると、SunMicrosystemsが示した「ネットワークこそがコンピュータだ」というコンセプトは正しかったと言える。

 この本からはもしかしたら同様のことが読み取れるかもしれない。それはつまり、未来において、コンピュータは人間と同じように考えるようになるか、とうことだ。つまり「The computer is the brain.」〜「コンピュータこそが最高の頭脳だ」と言えるかどうかである。

 私はこの本を読んで、かつてのMicrosoftやCompaqが旧態依然とした企業を買収しながら大きくなり、そして衰退していったことを思い出した。2000年代のことである。そして最後にやってきたIT産業は再び過渡期を迎えている。それは、人類が発明によって自らの能力を拡張してきた歴史の最終章かもしれない。

 最近になりGoogleはロボット企業や人工知能に関連する企業を相次いで買収している。ロボティクスは他の産業を飲み込んで一大巨大産業になるであろう。その鍵を握るのがまさに「思考するコンピュータ」つまり人工知能なのだ。人工知能が人類の思考に迫る時期がやがて訪れる。その時、私たちは産業構造だけではなく、人類として大きな転換点を迎えるに違いない。その信憑性は、この本の著者がおしまいのページ近くに書き記した通りなのであった。

269ページ
 私の友人には信心深い人々がいて、私が人間の脳をマシンとみなし、頭脳の働きを演算とみなしていることがわかると、ショックを受ける人が多い。一方、科学者である友人たちは、人間がどのように思考するかが解明できる日は来ないと信じている私を神秘主義者と呼んで非難する。しかし、宗教も科学もすべてを明らかにできているわけではない。人間の意識活動は、物理法則が支配する現象と複維な演算によってもたらされると私は思っている。だからといって、人間の意識活動が神秘的でないとか、素晴らしくないと考えているわけではない――どちらかといえば、人間の意識活動を物理法則と複雑な演算の結果と考えることによって、人間の意識活動がより神秘的でより素晴らしいもののように私には見えてくる。ニューロンの信号と知能の間には、我々の理解を超える溝が横たわっている。私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。

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ジョブズこそがアップルだった 『沈みゆく帝国』 ケイン岩谷ゆかり著

沈みゆく帝国 スティーブ・ジョブズ亡きあと、アップルは偉大な企業でいられるのか

 スティーブ・ジョブズ。アップルのビジョナリーであり、宇宙にインパクトを与えた彼がこの世から去ったはの2011年10月のことだ。もうすぐ3年目になる。
 はたしてあの時からアップルは変わったのだろうか。いや、変わらないわけがないのである。それまで革新的であったアップルは明らかに保守的になった。まるで311の時以来、日本がすっかり保守的になったように、アップルもやはりジョブズの死以来保守的になったのだ。
 そのことを示す一冊の本がここにある。おそらく、多くの人々が気づいていながら目をつぶってきたこと。多くの人々があの時に諦めかけたけどそれでもほんの少しの期待を寄せていること。「アップルはジョブズだったんだ」と再び気づき、そのことが日々確信に満ちていくこと。
 私は世界中のアップルファンが今ではアップルを冷やかな目で見ているような気がしてならないのだ。そして、アップルファンではない私のような人々は、いつごろから非アップル製品への転換を図ろうかと考えているに違いない。しかし、それは今ではない。まだジョブズの亡霊は去ってはいない。それはiPad miniやiPhone5といったジョブズ亡き後に世に出された製品にも残っている。そして、アップルが強固に作り上げたエコシステムが簡単に砂漠化することはないだろう。一度手にしたアップルという居住環境を人々はそうそう簡単には手放さないだろう。そして、このエコシステム自体がアップルでなければなしえなかった偉業なのだと今更ながらに気づくことになる。ところが残念なことに、この本にはそのことに気づくヒントさえ書かれていないのだ。

 では、500ページもあるこの本には何が書かれているのか。主にアップルとジョブズのゴシップ記事と、ティムクックの人物像、そしてアップルが今後抱える困難である。ジョブズの時代の最終章と、あれから3年たったアップルが今現在どうなっているのか、そしてそこに至る経緯はどのように形作られたのかを知ることができる。

 この本を読んでふと思い出したことがある。2011年のジョブズが死んだ年に読んだ『スティーブ・ジョブズ』のことだ。あの本を読んだとき自分がどんなことを考えたのか記録が残っているはずだ。このブログに記事として掲載はしなかったが、記事自体はしっかりと書いていた。せっかくだから、ここに掲載することにする。もちろん、『沈みゆく帝国』を読む前に、『スティーブ・ジョブズ』を読んでほしいという意味を込めている。



『スティーブ・ジョブズ』 ウォルター・アイザックソン著

355ページ
Nextをたち上げの時、資金が底をついた。ミッチー・ケイパーと同じ状況だ。

スティーブ・ジョブズ I

 さてと、いままで色々な本の書評を書いてみたけど、この本だけは、書評を書くことさえはばかられる。しかし、このブログの題名が何しろ「アイフォニアにはこれがいい!」って題名※当時だし、そもそもこのブログを書くきっかけとなったのもアップルのiPhoneだったわけだから、これは書かないわけにはいかない、と、思い直したわけだ。
 まず結論から言おうと思う。この本すこぶる面白い。それはコンピュータに疎い人や、アップルの存在自体を知らない人にとっても変わらないと思う。NHKが特集を組んだり、メディアで取り上げられたり、と、ことジョブズのことに関しては間口が広い。しかし、何と言ってもiPodやiPhone、iPadを使っている人にとっては、その出所に興味がわいてくるだろう。ジョブズと彼がデザインしたデバイスは、そのどちらから入り込んでも繋がるはずだ。

 おっと、この本はなにしろよく売れているようだし、既にネット上には書評が蔓延しているようだから、本を読めばわかることはこれぐらいにしておこう。それよりも、この本を読んで、私がどう感じたかを書いていきたいと思う。こういう書評は嫌われがちだけど、まあ既にこの本を読んだ人たちも「こんな読み方があるのか」なんて形で気にしてもらえると、僕としては嬉しい。

〓 初期のスティーブはまるで「項羽と劉邦」の項羽のようだ

 「スティーブ・ジョブズ」を読んで、最初に思い出したのは、司馬遼太郎の歴史小説「項羽と劉邦」だった。そこに登場する項羽とスティーブ・ジョブズが似ている感じがする。性格がね。スティーブ・ジョブズは武人ではないけれど。
 「項羽と劉邦」は、中国紀元前に秦の始皇帝が滅んだ後、漢の国ができるまでの話だ。動乱のなかで台頭した武将として、項羽と劉邦という、まったく性格の違う二人が戦ったという話。項羽はスティーブ・ジョブズのように、我が強く、自分が先頭に立って軍団をぐいぐいひっぱて行くタイプ。功績のあるものは重用するけど、駄目な奴はバンバン切り捨てる。とにかく厳しいのだ。自分に対しても人に対しても。
 一方の劉邦は、どうにもいい加減なタイプで、クールな感じではない。しかし、人を使うのはうまい。自分が軍団を引っ張るのではなく、むしろ回りの人間はやきもきするくらいに頼りないところもある。もし劉邦がアップルに入社したらイッパツで首が飛びそうだ。
 で、項羽と劉邦、最終的にどちらが勝ったかというと、劉邦が率いる「漢」軍が勝ったわけだ。項羽が率いる「楚」の国は、兵士がみな項羽から離れていってしまった。項羽の最後は、項羽から劉邦に寝返って、離れていった者たちに囲まれて自害するという悲しい結末なんだ。この時の状況が「四面楚歌」といわれているのは知っている人も多いと思う。つまり、味方はみな寝返ってしまって、周りは全て敵になってしまったというわけだ。
 ジョブズがスカリーに追い出されるときはちょうどこの「四面楚歌」の状態だったんじゃないか。でも、項羽は自害したけど、ジョブズは生き残って、そして復活した。そこがすごいと思う。

〓 デジタルハブって

 29章(146ページ)にはデジタルハブ構想というのが登場する。iPhone,iPodなどの中心にPCを配置して、デジタルハブとしての機能をPCにもたせるという構想だ。
 実は、同じような構想が以前にもあったことを思い出した。2001年頃に、私はSunMicrosystemsのスコットマクネリの講演で同じような話を聞いた記憶がある。あの頃はまだSunも元気いっぱいで、ジャバジャバ言っていた頃だ。JAVAの可能性については未知数だったけど、基本的には大概のデバイスに実装可能だから、JAVAを仲介してあらゆる機器が繋がる、と話していたっけ。でも、それで何ができるかという、実質的な話はなかったなぁ。これは、どう考えてもジョブズが正しいと思う。繋がる理由が先に必要だってことだ。繫げてから何に使うか考えても仕方がないからね。
 結局JAVAは標準として生き残ったけど、Sunは死んだ。それを考えると、一方のビルゲイツが追い求める、標準というのも、重要だとつくづく思う。今後、アップルのデバイスは標準になることがあるのだろか?それとも、どこまで行っても、アップルはアップルであり続けることができるのだろうか?   

〓 複雑系の独裁者

 垂直統合モデルと水平分散モデル、これはアップルとマイクロソフトの形態を象徴するものだ。ジョブズは垂直統合モデルを選択したし、そしてそれが成功したのがなぜかを語っている。また、水平分散モデルがある一面では正しいことも認めているのだ。実はITの世界ではこの垂直統合と水平分散が交互に繰り返されている。最初はメインフレーム、次がオープン化クライアント・サーバモデルによる分散処理、その次はシン・クライアントになりコンピューティングの負荷はサーバに集中した。そして今は仮想化でサーバが統合されつつクラウドで分散処理されている。結局コンピューティングの資源はクラウドサービスを提供するデータセンターに集中している。でも、モデルとしては水平分散モデルになる。
 しかし、こういった垂直統合、水平分散というのはアップルの垂直統合とは、ちょっと違うかもしれない。アップルの場合はメーカーによる垂直統合であって、システムのそれを指しているわけではないからだ。だからこれは、かつてのIBMに代表されるメインフレームによるクローズドな垂直統合システムに近い。ようするに、当時全てがIBMのシステムで統合されていたのと同様に、現在はすべてアップルのシステムによって統合されるというわけだ。最近ではこのことをエコシステムと言うようになっている。
 実は、アップルは今だにIBMの後を追っているのではないだろうか。かつてApple2を発売するときにIBMは歯牙にもかけなかった。そして、やがてIBMパソコンはオープンなシステムとして普及する。これと同じことは、アップルとグーグルの間でも起きるのではないか。だからこそジョブズはあれほどもまでにアンドロイドの普及を阻止しようとしたのではないか。(水爆を使ってでもアンドロイドを叩き潰すといっていた)。
 かつて、パソコンが普及しだした頃に、デファクトスタンダードという言葉が流行り始めたことを覚えているだろうか。Microsoftはこのデファクトスタンダードとなることで市場を支配したのだ。もう一つ、VHS対BetaMAXの戦いを覚えている人も多いだろう。Betaの方が性能的に優れていたのに、VHSが勝った要因は、録画時間の長さとコンテンツの多さだといわれている。
 つまり、イノベーションのジレンマなのだ。イノベーションが同じところから起こり続けるということはない。アップルもやがて下方から立ち上がるイノベーションに、いつかは巻き込まれるのだ。それはおそらくアップル製品がクオリティの高さゆえに高級品となり、ブランドが不動のものとなりかけたときではないだろうか。つまり、今この時点で、アップルが歯牙にもかけないような製品が、いずれはアップルを超える日が来るのである。

 スティーブ・ジョブズは、アップルをhpのように長く続く企業にしようとした。そして、クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」も読んでいたという。イノベーションのジレンマに巻き込まれず、長く続く企業にするために、ジョブズはどんな方策を考えていたのだろうか。最後に、その答えのヒントになりそうな箇所を引用して、この記事を終わりにしたい。

137ページ
「マイクには本当に世話になった。彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が強調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が信じる何かを生み出すこと、長続きする会社を作るということなんだ」

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集団主義、分断、排斥、勝ち馬に乗る国民 『クラウド 増殖する悪意』 森達也著

クラウド 増殖する悪意

 2014年7月、佐世保で高校1年生の少女が友人を殺害した。理由は「人を殺して見たかった」からだったという。実は2004年にも佐世保では同様の事件が起きている。小6少女殺害事件だ。この二つの共通点は地域と、そして被害者が友人であることである。
 ここに二つの疑問がある。なぜ「人を殺してみたい」という願望を容易に実行に移すことができるのか、ということと、相手がなぜ友人なのか、ということだ。しかし、この答えは出ないだろう。何故なら答えを出してそれを理解した瞬間に、私はあちら側の人間との類似性を示すことになるからだ。
 できるだけ忌諱するべきものとしての事件、あるいは出来事というのは、世の中には多数存在する。例えばオウム真理教はその最たるものだ。私たちは彼らをテロリストと呼ぶことで、日常の一般市民と分断した。しかし、何かを何かと区別しようとした時に、そこに一本の線さえも引くことが出来ない。私たちは残虐性のある映画を好んで見ることもあるだろうし、宗教的な集団行動を取ることもある。そこにある類似性を無視して、できる限り遠ざけるために、私たちはそこに難しい説明を加えるのである。

 この本は、私たちが少しずつではあるものの、集団化に進んでいることを説明している。それは例えば、日本人が右と左に分かれ、いつの間にか中道は消え失せて右が大きく集団化しているように。そして、在特会なるものが出現し、韓国人を排斥することで別な角度から日本人を集団化させようとしている。
 集団的自衛権に賛成か反対か。原発再稼働に賛成か反対か。そうやって日本の国民はクラウド(群衆)として扱われ、イロイロな方面から切り刻まれるのである。やがて、集団に従うのか従わないのか、政府的なのか反政府的なのか、国民なのか非国民なのか、というわけのわからない取り分けをされようとしている。
 この様子を、森達也氏は以下のように書いている。      

107ページ
 9.11後のアメリカやオウム後の日本が示すように、大きな事件や事故の後、人は一人が怖くなり、多くの他者と強く繋がりたいと思い始める。つまり集団の一因なのだとの実感が欲しくなる。特に日本の場合、オウムによって始まった国全体の集団化が、3.11によって、さらに加速した。
 絆や連帯を訴えながら、集団は外部の敵や内部の異物を探し始める。敵や異物が見つかれば、これを攻撃して排斥する過程で、もっと強く連帯できるからだ。つまり集団はその結束を高めようとする過程で、時として擬似右傾的な振る舞いを示す。

 2014年8月、朝日新聞が従軍慰安婦に関する強制連行の根拠となった吉田清治の証言に、誤りがあったとした検証記事を掲載している。これに対して、自民党石破幹事長はぶら下がり会見で、国民の苦しみや怒り、悲しみと何度も述べた。つまり、従軍慰安婦問題で国民が深い苦しみを味わっていたのは朝日新聞のせいであると言いたげだ。このことで苦しみを味わった国民とそうではない国民を分けて、苦しみを味わった国民は正しくそうでない国民は間違っていると言いたいのだろう。ここでも再び日本国民は大雑把なくくりで分けられてしまった。
 しかし、ふと立ち止まってみると、従軍慰安婦問題で強制連行があったされたことで深い苦しみをを味わった人々とは一体誰なのだろう。それを日本国民というなら、この問題に深い興味を持たず、傍観者的に捉えている私は日本国民ではないということだろうか。あるいは朝日新聞は国民のためにはならない国民の敵としての新聞であるということか。
 いずれにしても、政治家がここまで大上段に新聞社を相手に批判するというのはおそらく戦後初めてではないだろうか。これはあたかも戦前に朝日新聞だけが反戦を唱えたために不買運動が広がり、結果的に参戦報道を開始し、そして言論統制につながったその繰り返しではないだろうか。
 いや、その前にそもそもこの従軍慰安婦問題の中核をなす、従軍慰安婦自身が味わった深い悲しみと、石破氏がいう深い悲しみとは何がどう違うのだろうか。

 やはり少しずつ日本は巻き戻されているのだろうか。この本で森達也氏は、群衆が一方に塊となりなだれ込むさまを、次のように書いている。

166ページ
「何でこんなことになったのだろう」
 昨夜は月に一回行われる『朝日新聞』の論壇合評会があった。会が終わりかけたころ、ふと誰かが小声で、「何でこんなことになったのだろう」とつぶやいた。自民党が2012年4月に発表していた憲法改正草案が話題になった直後だった。
 天皇は国家元首となり、9条2項は変更されて国防軍の条文が加えられ、21条表現の自由には「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」と付記され、さらに基本的人権を謳う97条はまるまる削除され、代替草案はどこにもない。
 13条や29条における「公共の福祉」はすべて「公益及び公の秩序」に差し替えられ、「憲法尊重擁護義務」として「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と記されている。つまり国民主権という概念が消えている。
 この草案が公表された7か月前、一応は目にしていたはずだけど、どこかで冗談半分に捉えていた。本気になっていなかった。
 このままでは転ぶに違いないと思いながらも、ずるずると坂道を滑ってきた。在特会の出現や尖閣購入騒動など当然な連鎖が続いているのに、どこかで高をくくっていた。
 合評会の席上で興味深い話を聞いた。かつて選挙報道の際には、「アンダードック(負け犬)効果」という言葉がよく使われた。要するに「判官びいき」だ。Aが遊説と報道されれば劣勢なBを応援したくなるという人間心理。かつてはこちらのほうが普通だった。だから新聞やテレビなどで優勢と報道されことを、党や候補者は嫌っていた。メディアに抗議することも頻繁にあった。
 でもここ数年は、まったく事情が変わってきた。優勢と伝えた党や候補者に、さらにより多くの票が集まるようなってきた。これを「バンドワゴン効果」という。
 バンドワゴンとはパレードなどの先頭を走る着飾った車のこと。より多くの人がいる行列により多くの人が集まる。つまり「勝ち馬に乗れ」だ。その傾向がとても強くなっている。

 どうも最近の日本人は、それが正しいのか正しくないのか、あるいは人のためになるのかそうではないのか、などの判断をやめて、勝つのか負けるのかだけで判断しているような気がする。そしてそれは、今現在勝っている自民党に多くの国民がただ単にぶら下がっている様と重なるのだ。

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科学を真面目にバカバカしく 『感じる科学』 さくら剛著

感じる科学 (Sanctuary books)

 ものごとを人に伝える時にどうしたら面白おかしく伝えられるのか、ということを研究するためにこの本を読みました。
 そもそも、物事を人に伝えるためには、伝えようとしている内容そのものに興味を持ってもらわねばなりません。著者は、どうやったら興味を持ってもらえるのかということを突き詰めた結果、それが説明のバカバカしさであると言っているようです。

3ページ
 でも考えてみてください。
 宇宙のこと、時間のこと、生命の進化のこと、そういうものには誰もが少しは興味を持っているはずなんです。だって、自分が生きているこの世界のことなんですから。
 でもそれをちゃんと勉強することに抵抗があるのはなぜかというと、そえは教科書や専門書がまったくバカバカしくないせいです。

 おっと、勘違いされそうなのでもう一度説明しますが、説明がバカバカしいといっているのではありません。バカバカしく説明をするべきであると言っているのです。うーん、なんだかこの説明自体がバカバカしく思えてきましたので次に進みます。

 バカバカしさについては放っておいて、人に伝わる説明には何が必要なのかを考えると、なんといっても説明する側と説明を受ける側の共通事項で例を用いること。要するに読者が知っている例を引き合いに出すということでしょう。そういう意味で言うと、この本には、のび太くんとかマ○コデラックスが出てきます。ですから、たとえこの本を読んでいる方が詳しくわかっていなくても、わからせようとする努力が伝わってきて同情と共感を誘うと思います。
 しかし、こういった試みはこの本が最初ではない様な気がしました。そうそう、それはかつて私が読んだ『宇宙を織りなすもの』でも、著者であるブライアン・グリーンが使った手法でもあります。あの本も読みやすく分かりやすく書いていたけど、そのためにザ・シンプソンズを登場させていたのでした。ですからこの本は、『宇宙を織りなすもの』でのザ・シンプソンズを登場させた解説部分をノーカットでコラージュした感じ、と言って良いでしょう。

 この本を読むことで、科学に関する深い理解が得られるのかというと、かなり眉唾ものです。やはり、「感じる」ことと「理解する」ことはだいぶん違います。
 しかし、科学に対する興味というのは、やはり「感じる」ことから始まると言ってよいでしょうね。要するに、そこにあるのは最初に不思議があるわけです。「何で?」という疑問ですね。この「何で?」という疑問に対しては、「解った!」と感じることが重要なのでしょう。たとえ深い理解に至らなくとも、何となく「解った!」と「感じる」ことが重要なのです。

 この本をお勧めするのは次のような方々です。
1.科学にあんまり興味がないけど、ミステリー小説は好きだ、という人。
2.小保方さんの事件には注目したけど、STAP細胞とかって分からなかった人。
3.大学受験を控えているのだけど、理系がどうも苦手な人。
4.小さなことにくよくよしているけど、そこから脱却したい人。

 最後の、小さなことにくよくよしてしまっている人は、この本を読むと、素粒子とかからビックバンの話の展開を読んで、自分の周りにあったくよくよがあまりに小さく見えてくるので、もうくよくよしなくても良くなるんじゃないかと思います。

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東日本防潮堤建設への困惑とあの戦争 『日本軍と日本兵』 一ノ瀬俊也著

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

 既に日本人の中から戦争体験が消え失せ、日本全体が戦争に向かった時代、つまり戦前昭和に逆戻りしているように見える。しかし、実際には私達は既に戦争と似たような体験をしているのかもしれない。それが、3年前の東日本大震災ではないだろうか。

 東日本大震災から3年を過ぎた現在、津波の被害にあった市町村では、防潮堤計画に揺れているという。海と生活環境を切り離す、見上げるほど高く威圧的な防波堤が、果たして必要なのだろうかという議論だ。
 防潮堤計画で問題になるのは、防潮堤が海と生活圏を分断することで、住民の生業が犠牲となることである。一方で、防潮堤の設置を推進する政府は、防潮堤を建てなけれ住民は危険にさらされるという。
 最近はすっかり新聞紙面からは影をひそめていた防潮堤問題が私の眼に止まったのは、この問題が最近になりテレビの特集で取り上げられたからだ。もしこの番組を視ていなければ、私は政府自身が被災地の生活復興を阻害していることに気づきもしなかったに違いない。

 そんな折にこの本『日本軍を日本兵』を読んだ。この本は、米国が近年公開した当時の資料に基づき、第二次世界大戦中の南方戦線における日本帝国陸軍兵士の実態を検証したものだ。読み進むと、現在の防潮堤計画の問題と、当時の南方戦線との問題に横たわる、奇妙な共通点に気づいた。
 それは、政府あるいは軍の目的は日本国家や地域集団を守るとしながらも、実は個人は犠牲になっているということだ。双方とも、結果的には守るべきものは個人ではなくあくまでも集団、つまりはその中央にいる権力側を守ることが目的なのである。
 例えば、現在の防潮堤計画をみると、次のような疑問が浮かぶはずだ。ある地域では、防潮堤により海岸線がその下敷きとなり、本来はアサリやその他の漁獲物を生業とできるべきところを失うことになる。そもそも、人々は生業のない土地に住む理由があるのだろうか。もし、住民が生業を失うことで、そこに住む者がいなくなったとして、そこに建てられた防潮堤は何を守るのだろうか。さらに、最近は学校校舎の耐震化が一部滞りを見せているという。防災という意味では、100年の津波を想定した防潮堤よりも、今後地震が発生する確率が高いと言われる関東および南海トラフ近辺の耐震化を優先するべきなのは明らかである。

 そもそも「防潮堤計画」は震災の半年後、9月に国会で出された「国土強靭化基本法案」に基づく。そしてこの「国土強靭化基本法案」は、藤井聡という人物が書いた『国土強靭化論』に由来する。そして、この論ではハードのみならずソフト面も重視するはずが、防潮堤計画ではハード面のみが推進される。しかも、防潮堤の建設は地域復興計画とセットとなり、防潮堤の建設を受け入れなければ、地域の復興予算はつかない仕組みとなっているのだ。
 ここには、政府側の、なんとしてでも防潮堤を建てたいという強い意向がうかがえる。住民の意見を取り入れるという前提はあらかじめ排除されている。おそらく、どこかの時点で防潮堤を建てることが目的となり替わり、市民の安全や生活の向上は、その目的から欠落しているのだろう。
 もし、政府側が市民の生命や安全を本当に考えるならば、まず居住地を津波がこない場所へと移転させる計画を優先すべきである。それが防潮堤の建設が決定しないと進まないのであれば、市民の生活を復興させるという本来の目的に大きく矛盾する。

関連リンク:宮城県の防潮堤建設計画に対する津波被災地住民の困惑

 同じようなことは南方戦線でも行われていた。これらの群島支配を守るために多くの日本人が派兵され、その島の防衛を強いられた。つまり、彼ら自身が防潮堤となったのだ。島では日本兵は「穴掘り屋」となり、一時は島の奥へと陣取った。ところが、アメリカ軍が島に上陸することを許せば、日本軍は殲滅することが必至であることが分かる。そこで、日本陸軍は水際作戦に転じ、海岸線の防衛へと作戦を変えたのだ。
 これにより結果的に日本兵はそのほとんどが玉砕することになる。もっとも、日本陸軍の指揮官側には最初から日本が米軍に負けることは分かっていたようだ。つまり、日本を守るためと説いて南方に市民を派兵したが、それは日本を守るという意味では合理的ではなかった。だとすれば、第二次世界大戦における9割の戦死者を出した南方への侵攻作戦を遂行する合理的理由とは何だったのだろうか。そこにあった守るべきモノとは、実は自分たちであったのだ。その守る者とは指揮官側の威信であり面子であったのだ。

249ページ
 ただしこの水際撃滅が一度は成功したとしても、米軍は必ず逆襲してくるはずである。このことについて原元中佐はどう考えていたのだろうか。
 彼は言う、「ただ一度でいいから勝ちたかった。南九州の決戦、それも志布志湾の決戦で勝ちたかった、意地だった。そして陸軍の最後の歴史を飾ろうと思った。政治は、本土決戦によって終戦に移行しようと考えていたかも知れませんが、私の考えは上陸する敵の第一波だけでもいいから破摧したかった」と。つまり一回勝ったという陸軍の面子さえ立てば、第二波以降はどうなろうとよかったのだ。
 問題は、このような一般国民からすればたまったものではない勝手極まる願望が、原の水際撃滅論のような狭い意味での〈合理性〉により正当化、粉飾されていたことだ。陸軍幼年学校、士官学校本科・予科、陸軍大学校をすべて主席で通した超のつく秀才の原にして、〈合理的なるもの〉のはらむ悪魔的な力に生涯魅入られ続けていたかのようである。

253ページ
 要するに、ジャングルと異なり隠れ場所を得られない平地での戦は、日本軍の惨敗という結果に終わるだろう、ということだ。前出の原志郎参謀は戦後の講演で「特に南九州で勝ちたい」と述べていた。広大な関東平野で米軍に勝てる見込みは端からない、と内心わかっていたからこそ、そのような発言となったのかも知れない。ちなみに『TM-E 30-480日本軍ハンドブック』第7章には「日本軍将校にとっては対面と志操の維持が最も重要であり、それゆえ空想的な英雄気取りとなりがちである」との指摘がある。

 自民党はその復活時に提示した「国土強靭化基本法案」を引っ込めるわけにはいかない。いかに地域住民の生活や海産資源の枯渇があったとしても、自分たちの計画が完遂されなければ、その対面や威信にかかわると考えているのではないだろうか。同時に官僚にとっては日本の予算を自らの手元に手繰り寄せる投網の手綱を今更手放す理由はないのだ。
 そして、安倍首相は今まさに「空想的な英雄気取り」になっているのではないだろうか。この本を読むことで、日本人が抱える忌まわしい過去から抱え続ける、ある種の病理に気づくことができるかもしれない。

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そしてAIからロボティクスへ 『クラウドからAIへ』 小林雅一著

クラウドからAIへ

 先月、オバマ大統領が訪日したとき、ホンダのアシモとサッカーの対戦をしました。このことは人々の話題となりましたが、オバマ大統領の目的は、実はアシモではないのではないか、と言われています。オバマ大統領が本当に見たかったのは、アシモではなくグーグルに買収された日本のロボットベンチャーSCHAFTが開発したS-Oneであると………

〓 クラウドはもう古い?

 ニコラス・カーが書いた書籍『クラウド化する世界』が日本で発売されたのは、2008年10月でした。世の中がグーグルに代表されるクラウドサービスで大きく変化することを予測したこの本が発売されてから、既に5年と半分くらいが経っています。この間に、クラウドサービスは日常に浸透して、当時ニコラス・カーが予測した「クラウド化する世界」は既に到来しているかに見えます。現在、クラウド上に蓄積されたビッグデータが活用されるようになったのです。私たちは今、ニコラス・カーが予言したように、クラウド化した世界で生活していると言って良いでしょう。
 これでクラウド化する世界が現実のものとなったとするなら、次に来るのはどんな世界でしょう。その次なる世界を予測しているのがこの本『クラウドからAIへ』です。

〓 人工知能の変遷

 この本では、コンピューティングリソースの中にありながらも、クラウド化する世界とは独立して発展してきたAIのたどった道を、下記のように紹介しています。

1956年 論理によるAIの構築
    ルールベース、論理への過信→1970年に衰退

1980年 エキスパートシステムへの応用
    ルールベースの限界→1992年に衰退

2000年 ビッグデータを使った統計的手法(ベイズ理論)
    統計的手法の限界

2006年 ニューラルネットワークからディープ・ラーニングへの移行
    現在に至る

 2000年代に一度ビッグデータと融合するかに見えたAIですが、その後、ビッグデータという知識の混沌の中から生み出されるAIは限界を見せました。統計的手法により生み出されたAIは、結果的に人類がもつ思考を模倣することはできなかったのです。
 この統計的手法に代わり、2006年にAIの技術者は、実は古くからあるニューラルネットワークに注目し採用します。そこに知識の階層レベルを追加したのがディープ・ラーニングという進化したAIです。
 ディープ・ラーニングはその名称から分かるように、学習するマシンです。つまり、人類の思考パターンを模倣するのではなく、学習する脳の仕組みそのものを機械化しています。これによって、AIの可能性は飛躍的に伸びました。

〓 人工知能は進化している

 人類と対等に勝負するチェスマシン(IBMのディープブルー)が、その対戦相手を負かしたのは、1997年でした。その出現から現在、将棋で人類に勝るマシンが出現しています。しかも、このマシンはスパコンではなく、一般に販売されているパソコン上で動作します。最近になり飛躍的に能力を向上したこれらの対戦システムは、ディープラーニングを採用しています。将棋におけるコンピュータと棋士との対戦は電脳戦とよばれ、最近はコンピュータが棋士と対等に勝負できるようになっているのです。
 それでも、囲碁においてはまだコンピュータが人類には及びません。やがて囲碁の勝負でコンピュータが人類を負かすようになったとき、現在多くの人々が生業としている知的作業さえもコンピュータによってなされるようになるかもしれません。

〓 進化した人工知能を搭載するロボット

 著者はビッグデータに代表されるクラウドの先にあるものがAIの活用であると断言します。AIは最終的にはロボットに搭載される技術であると予想されます。その前段階として、現在は自動翻訳や自動車の自動運転に利用されています。
 特にグーグルがロボット企業やAI企業などを買収する動きは、民間におけるロボティクスの活用に一定の現実性を見出しているためといえるでしょう。グーグルは2013年3月にはカナダのDDN社を買収、さらに2014年1月にはDeepMind社を買収しています。
 これらの買収された企業はいずれもディープ・ラーニングというAIの手法を用いた企業です。ディープ・ラーニングはAIを実現する最も現実的な手法と考えられています。

〓 AIがもつ危険性

 ところが、近年のAIの発展は、現実的であると同時に、大きな危険もはらんでいると言います。最新のAI技術であるディープ・ラーニングはそのプロセス自体がブラックボックス化されており、AIが物事をどのように学習しているか、あるいはどこまで学習しているかが外からは見えなくなるのです。つまり、AIが今後より人間の知能に近づいたときに、自らの生存のために人類を排除することも十分あり得ることであると言えます。さらに悪いことに、そうなってからではAIがどのような仕組みあるいは思想で判断しているのかを、人間の側は知ることができなくなっている可能性があるのです。

 たとえそこまで行かなくとも、ロボット兵器に人工知能が搭載されたときに、どこまで人間側の意識が介入できるのか、不明な状態になります。実際に、米国ではロボット兵器に人工知能を搭載することについて、倫理的な問題点を検討している段階です。

〓 米国が推進するロボティクス

 オバマ大統領は昨年、3Dプリンターの普及を鑑みて、米国に製造業を取り戻すとしました。そして、現在は米国でロボティクスを発展させようとしているように見えます。
 アベノミクスがなかなか第3の矢を放てない今、かつてはロボット大国と言われていた日本が、米国にその技術力で追い抜かされるのではないかと危惧されます。はたして、日本がこれまで培ってきたものづくりの技術や、ロボット技術は発展を見せるのでしょうか。もしかすると、日本はすでに産業分野で世界が進もうとしている道筋から取り残されつつあるのかもしれません。
 クラウド化以降の最先端技術が果たしてどこに向かおうとしているのか、日本が再び世界の技術立国として返り咲くことができるのか、その問いに対する答えがこの一冊の本に凝集されています。

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戦後レジュームからの脱却と日米安保条約の完成 『戦後史の正体』 孫崎享著

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)

 2014年4月24日オバマ大統領が来日しました。そして、その翌日にオバマ大統領は尖閣諸島が日本の施政下に含まれると明言しています。これによって、2013年末の安倍首相靖国参拝以来悪化していた日米関係に改善の兆しが見られました。
 しかしそれは「兆し」であり、その後の日米関係の方向性を決定づけるものではありません。現実的には日米の間にある溝はもともと深く、そして入り組んでいます。その深く入り組んだ溝の様子を『戦後史の正体』で孫崎氏がつまびらかにしています。

〓 戦後の日本が米国とともに歩んできた道のりとは

 日本は敗戦後に米国の占領下で新たな社会を構築しました。軍国主義から脱却し、そして民主主義と平和主義による社会を形成したのです。当然、戦勝国である米国が主導的立場に立っていました。
 そして、その後も日本に対する米国の支配体制は変わっていません。敗戦以来、日本の首相は米国の方針や体制に追随するようにして国政を進めていたのです。しかし、中には米国の要求に抵抗し、日本独自の路線を推し進める首相も居ました。
 この本では、前者を「対米追随派」後者を「自主派」と呼んでいます。

〓 対米追随派

 対米追随派は、米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした人たちです。
 孫崎氏は、対米追随派として以下の首相を挙げています。

  • 吉田茂(安全保障と経済の両面で、きわめて強い対米従属路線をとる)
  • 池田勇人(安保闘争以降、安全保障問題を封印し、経済に特化)
  • 三木武夫(米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため、特別な行動をとる)
  • 中曽根康弘(安全保障面では「日本は浮沈空母になる」発言、経済面ではプラザ合意で円高基調の土台をつくる)
  • 小泉純一郎(安全保障では自衛隊の海外派遣、経済面では郵政民営化など制度の米国化推進)

〓 自主派

 そして、自主派は積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たちを指します。自主派としては次の人物を挙げています。

  • 重光葵(降伏直後の軍事植民地化政策を阻止。のちに米軍完全撤退案を米国に示す)
  • 石橋湛山(敗戦直後、膨大な米軍駐留経費の削減を求める)
  • 芦田均(外装時代、米国に対し米軍の「有事駐留」案を示す)
  • 岸信介(従属色の強い旧安保条約を改定。さらに米軍基地の治外法権を認めた行政協定の見直しも行おうと試みる)
  • 鳩山一郎(対米自主路線をとなえ、米国が敵視するソ連との国交回復を実現)
  • 佐藤栄作(ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価値が高まるなか、沖縄返還を実現)
  • 田中角栄(米国の強い反対を押しきって、日中国交回復を実現)
  • 福田赳夫(ASEAN外交を推進するなど、米国一辺倒でない外交を展開)
  • 宮沢喜一(基本的に対米強調。しかしクリントン大統領に対しては対等以上の態度で交渉)
  • 細川護煕(「樋口レポート」作成を指示。「日米同盟」よりも「多角的安全保障」を重視)
  • 鳩山由紀夫(「普天間基地の県外、国外への移設」と「東アジア共同体」を提唱)

〓 自主派の行方

 この本ではまず終戦間際の首相であった吉田茂と、外務大臣であった重光葵を引き合いに出します。この2名は米国に対する態度が実に対照的です。米国の要求を受け入れつつ経済政策を優先したのが吉田茂です。その例は、日米安保条約です。そもそもこの条約に調印したのは、米国側4名に対してに日本側は吉田茂一人でした。そしてその内容もこの時の条約は日本にとって不利なものであったのです。
 対して、重光葵は米軍の撤退を求めました。これにより重光は米国によってパージされたと孫崎氏はいいます。なお、重光葵はポツダム宣言による降伏文書に調印した人物でもあります。

 この本のタイトルからわかるように、孫崎氏の主張は自主派が米国の干渉により政界からことごとく追放されている事実を述べています。戦後の日本は米国の属国であり、自主派の多くは米国CIAなどの介入により失脚しているのです。そして、それがマスコミが語らない『戦後史の正体』であるというのです。

〓 自主派と安保条約

 米国追随派である吉田茂が調印した旧日米安保条約を改定し、平等とまではならないまでも不平等の部分を解消したのが、岸信介が進めた新安保条約でした。岸信介が進めた新安保条約に対して孫崎氏は次のように評価しています。

213ページ
 新安保条約のどこが旧安保条約に比べてすぐれているか、それは2005年以降、日本の安全保障関係が大きく変質していくなかであきらかになります。
 ここでいくつか、新安保条約が旧安保条約に比べて評価できる点を説明しておきましょう。
①第1条で「武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない、いかなる方法よるものも慎むことを約束する」としていること。武力の行使に「国際連合の目的」という枠をはめているのです。
②第5条で「日本国の施政下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和および安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定および手続きにしたがって共通の危険に対処するように行動する」としていること。
 ここでは、日本は米軍が攻撃されたときもともに行動することを約束しています。しかし、そこには制限がついています。「日本の施政下にあるところへの攻撃」と「相手からの攻撃があるとき」に限られているのです(米国は最初、「日本の施政下」ではなく、もっと広い地域、「太平洋」をカバーしようとしていました。これは旧安保条約にはなかった点です。

〓 安保条約と集団的自衛権

 今まさに日米安保条約を改定にまで持ち込んだ岸信介の孫である安倍晋三が「戦後レジームからの脱却」を掲げています。その目的の一つは集団的自衛権を獲得することです。おそらく、この集団的自衛権の獲得なくして、新安保条約が生きることはないでしょう。なぜなら、新安保条約の第5条には日米双方が「共通の危険に対処するよう行動する」と規定しているからです。そしてそれは「自国の憲法上の規定および手続きしたがって」なされるのです。つまり、第5条では日本が集団的自衛権の行使を前提としながら、憲法上の規定による縛りを加えているのです。

 逆に、この日米安保条約の第5条を前提とするとき、日本は集団的自衛権を行使せざるを得ないことがわかります。例えば、日本の領海内で米軍艦船が攻撃を受けた時、現行の憲法解釈が足かせとなるのです。つまり現状では、安保条約の第5条に書かれている「自国の憲法上の規定および手続きにしたがって共通の危険に対処するように行動する」ことができない可能性があるという事です。

 ところがこの本をたどると、憲法解釈によって集団的自衛権を認めさせることは難しいことがわかります。旧安保条約の時から既に集団的自衛権の行使は違憲と解釈できることが問題となっていたのです。

166ページ
 歴史家の坂元一哉は、次のように書いています。
「アメリカ側の会議録とメモを分析すれば、ダレスの意味する安保改定の条件がかなかなかきびしいものであったことがわかる。
 ダレスは第2回会談で、もしグアムが攻撃されたら日本はアメリカを助けに来るかと相互防衛に関して質問をしている。これに対して重光が、自衛のためなら軍隊の派遣も可能であるという趣旨の返答をしたので、ダレスはそういう重光の憲法解釈はわからないとたしなめるように反論した」(「重光訪米と安保改定構想の挫折」)
 さらにもうひとり、同行した河野一郎農林大臣の証言を見てみたいと思います。
「ダレスの言った趣旨はこうだ。
 日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないのではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないのではないか。自分の方の体制ができていないのに安保条約の改定とは、一体どういうことなんだ。
 ところで、ここで重光さんに感心したことがある。とうのはこうやってダレスさんからやっつけられると、重光さんは立ち上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を想定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこが違うか』〔と主張した〕。
 こうした緊張したなかでの重光さんの態度は堂々としている。
 やはり戦前の外交官は見識をもっている〔と感じた〕」(河野一郎『今だから話そう』春陽堂書店)

 安倍首相にとって、今回のオバマ大統領訪日で得たものは、集団的自衛権についての発言です。なんと言っても安倍首相にとってこの言葉は最も欲しかった言質であったのでしょう。なぜ安倍首相は集団的自衛権の合法化にこだわるのか? それは、おそらく岸信介の残した改定安保条約の矛盾点を修正し、それをひとつの政体の礎として完成させるためであるのかもしれません。もしそうだとすると、これこそがまさに「戦後レジュームからの脱却」であると言えるでしょう。つまり、集団的自衛権を日本が行使できることで始めて、日米安保条約は対等なパートナーシップの証となるのです。

〓 安倍首相は自主派である

 『戦後史の正体』が出版されたは2012年1月当時の首相は野田邦彦でした。そのためこの本に現在の安倍首相の評価は含まれていません。ただし、第一次安倍政権は対米追随派として評価されています。安倍首相の靖国神社参拝は、自分が対米追随派ではないことを主張するためだったのかもしれません。
 現在、安倍首相は欧州を歴訪するなど、積極外交を進めています。一方ロシアに対しては米国に追随して制裁を加えようとしています。うまくバランスを取りながら、自主路線と対米追随を組み合わせていると言えます。つまり、共産圏に対する安全保障面では対米追随であり、イデオロギーでは自主派であると言えます。

 『戦後史の正体』とはつまり自主派が米国の手により秘密裏に政界から追放されてきた事実を指しています。安倍首相が自主派であるとするなら、いずれ安倍首相は米国の手により政界から追放されるのでしょうか。
 おろらく、安倍首相に対しては従来のように米国の干渉はないでしょう。それは、米国が望むのは日本が米国に追随するか否かではなく、それが米国の安全保障上のリスクとなるか否かで判断されているからです。なぜそうとらえることができるのかについては、米国から見た日本の戦後史である『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン』の書評記事でいずれ述べたいと思います。

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