前回紹介した『それでも、日本人は戦争をえらんだ』は、高校生への講義の内容を書籍化したものでした。今回紹介する『昭和史』も、口語体で書かれています。そもそもこの本自体はCD音声版もあり、口述が最初に存在しています。
それにしても、著者である半藤氏は、良くこれだけのことを記憶にとどめているものだと感心します。全部が真実ではないにしても、作家としての活動の中で一次情報を得る機会も多かったたのではないでしょうか。また、半藤氏は司馬遼太郎とも親交があったため、資料から得た情報のやり取りもあったのかもしれません。
これまで紹介してきた中では、この本が一番面白く読めます。私のように、もともと歴史は苦手だけと……、という人に特にお奨めできる本です。
政治***
軍事**
経済*
社会***
文化**
生活**
この本に対する他の書評ブログ記事のリンクを掲載します(記事著者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます)。
Chikirinの日記:2011年5月1日の記事
ヒストリーチャネル:
弁理士の日々:2012年2月14日の記事
晴耕雨読:2009年7月12日の記事
青いblog:2011年2月8日の記事
天才とバカの間:2007年6月19日の記事
少し長いのですが、以降は引用とその引用部分に関する感想を述べます。タイトルを見て木になったところだけでも読んでいたただければと思います。
〓 栄枯盛衰80年説
■14ページ
さてここから大正、昭和になるのですが、自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人はたいへんいい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の祖父が一所懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和20年(1945)8月15日の敗戦というわけです。
1965年から国づくりをはじめて1905年に完成した、その国を40年後の1945年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに40年、国を滅ぼすのに40年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。
もうひとついえば、敗戦国日本がアメリカに占領されて、植民地ではないのですが、なんでもアメリカの言いなりになる苦労の7年間を過ごし、講和条約の調印を経て新しい戦後の国づくりをはじめた、これは西暦で言いますと1952年のことです。
さらにさまざまなことを経てともかく戦後日本を復興させ、世界で一番か二番といわれる経済大国になったはずなんですが、これまたいい気になって泡のような繁栄がはじけ飛び「なんだこれは」と思ったのがちょうど40年後、同時に昭和が終わって平成になりました。
こうやって国づくりをみてくると、つくったのも40年、滅ぼしたの40年、再び一所懸命つくりなおして40年、そしたまたそれを滅ぼす方向へ向かってすでに十何年過ぎたのかな、という感じがしないわけではありません。いずれにしろ、私がこれから話そうという昭和前半の時代は、その滅びの40年の真っただなかに入るわけです。
◆堀井憲一郎が『若者殺しの時代』で似たようなことを述べていました。堀井氏はシステムが壊れると言っていましたが、この本ではもっと積極的にシステムを破壊すると言っています。どちらも同じこと。でも半藤さんはその時代を生きてきた結果を述べている訳ですから信憑性があります。
〓 昭和天皇が激怒した226事件
■171ページ 226事件の話
ここまでくると、将校たちも「部下をすべて原隊に復帰させて、自分たちはここで腹を斬ろう」と意見がまとまりかけました。そこで何とか天皇陛下にその旨を申し上げて御使いを頂き、川島義之陸相や山下奉文少将ら皇道派の陸軍中央の人たちが相談し、これを本庄侍従武官長に伝えました。本庄さんは気が進まないながら奏上したところ、天皇はかつてない怒りを顔に表して言ったといいます。
「自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごとき者どもに勅使などもってのほかのことである」
◆昭和天皇もそうとう頭に来たみたいですね。でもこれは当たり前だと思います。クーデターを起こしたわけですから。お国のためにとか、陛下のためにといったってだめだと思います。勘違いも甚だしいと、陛下は思ったのではないでしょうか。
こういった、歴史の教科書や一般の歴史本には書いていないことが、この本にはたくさん書いてあります。そこが、これまでに紹介してきた本とは違うところです。
〓 城山三郎さんのこと
■174ページ
城山三郎が小説『落日燃ゆ』で非常に持ち上げたためたいへん立派な人と広田さんは思われているのですが、二・二六事件後の新しい体制を整えるという一番大事なところで広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。スタートから、「政治が悪いから事件が起きた。政治を改革せよ」という軍部の要求を受け入れて、「従来の秕政を一新」という方針に同調して組閣しました。秕政とは悪い政治という意味です。これでは軍部独走の道を開くことと同じなんですね。
◆以前「落日燃ゆ」を読んで感動したのですが、しかしこの事実を知って愕然。城山さんの書く小説は、よく考えたら思いっきり美談が多いです。「官僚たちの夏」なんかもそうでした。あるいは、現実には醜い部分があることを前提で、美しいものだけを残そうとしたのかもれません。いずれにしても城山三郎は、小説に対しては司馬遼太郎や半藤一利とは相容れないポリシーを持っているのだと思います。
〓 国民にとって戦争はバーチャルに映っていた
■199ページ
昭和13年1月、作家の石川達三が中央公論から南京に特派されて行っています。前年12月に起きた南京事件そのものは終わっているのですが、それでも相当数の虐殺が行われているのを彼は目撃しています。それを小説『生きている兵隊』として発表すると、直ちに発禁となり、執行猶予付きですが懲役刑を言い渡されました。それを読んでも、南京で日本軍がかなりひどいことをやっていることはわかります。
◆この小説は、今まさに読んでいる最中です。冒頭に、以下のような記述があります。
「(前期)日支事変については軍略その他の未だ発表を許されていないものが多くある。従ってこの稿は実践の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである。部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい。」
それでも、石川達三をこの小説を書かせた動機に従えば、そこに書いてある事象自体は実際にあったことなのでしょう。半藤氏によるこの本のあとがきには、次のように書いています。
「その回想によれば、『くわしく事実を取材し、それをもとにして、たとえば殺人の場面などには、正当な理由を書きくわえるようにした』というし、また検閲を考慮して『作中の事件や場所は、みな正確である』というのである。軍はこれを読み、むしろ猛反省すべきときであったのに、それどころか臭いものに蓋の無謀を敢えてしたのである。なぜなら、忌まわしき南京事件が背景にあったればこそ、『生きている兵隊』を抹殺しなければならなかったから。」
〓 勝つか負けるかにこだわり、目的を見失った
■208ページ
日本の民衆の中には泥沼の戦争への不満、先行きに対する政府への批判が徐々に出はじめるのです。政府も軍も困って昭和15年始め、気を引き締めるために「日本の戦争目的」をうたい上げます。
「今事変の理想が、わが国肇国(ちょうこく)の精神たる八紘一宇(はっこういちう)の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり。その究極において、世界人類の幸福を目的とし、当面において東洋平和の恒久的確立を目標としていることは、政府のしばしばの声明をまつまでもなく、けだし自明のことである」
これは現在65歳以上の人ならば懐かしく思われる言葉がたくさん出てきます。肇国の精神、八紘一宇、王道楽土、そういえば「東洋の平和のためならば、なんで命が惜しかろう」という歌もあったと……。それほど、日本の国自体も戦争目的があいまいになり、国民の気持ちにはいつまで戦争が続くのかという不安が大きくなっていたのです。
◆日本国民の多くは、内心「ああ、戦争か」といった気持ちだったのではないでしょうか。
〓 軍部と政府の権力闘争
■225ページ
このような笑いたくなるような事件を含みながら、政友会も民政党も懸命に、なんとか少しでも法案に制限を加えようと頑張っていたのですが、なんと左翼がこの法案に大賛成でした。当時、唯一の革新政党ともいえる社会大衆党は、何度も賛成論をぶったのです。現代から眺めれば、左翼勢力は階級闘争を通じて資本主義を改革ないし打倒しようと考えているわけですから、こうやって国家社会主義的な議論を押し立ててゆけば資本主義打倒も可能なのではないかという思惑があったためでしょう。矛盾したややこしい理屈ですが、つまりはそれが革新に通じるとでも錯覚したのでしょうね。
◆資本主義に対抗する社会主義が軍部と互いに手を結んだことで、逆に政府の力を弱めてしまった。この背景には、資本主義が警察権力と組んで、共産主義者を弾圧した意趣返しとしての政策だったのかもしれません。結局のところ、政局、つまり権力闘争に翻弄した結果なのでしょうか。
〓 政府と政治家の衰退
■226ページ
3月16日、この国家総動員法案が成立する当日ですが、社会大衆党雄弁家をもってなる西尾末広義士が登壇して大演説をしました。ちょっと面白いので引用します。
「……さる3月14日は、五箇条の御誓文の70年目にあたるのであります。『わが国未曾有の変革をなさんとし』と御誓文の冒頭に仰せられているのであります。まことにしかり、今日においても、わが国は未曾有の変革をなさんとしている。御誓文のなかには『旧来の陋習を破り、天地の公道にもとづくべし』こういうご趣旨もうたわれているのでありまして、この精神を近衛首相はしっかりと把握いたされまして、もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろうと思うのであります。今日わが国のもとめているのは、確信にみちた政治の指導者であります」
とこうやったんですねえ。「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく」辺りまではまだいいものの──もちろん日本は独裁政権ではありませんからヒトラーだってとんでもないのですが──最後に「スターリンのごとく」ときた瞬間、議場はひっくり返ってしまいました。怒った民政党と政友会からは「一体何を考えているのか」とガンガン野次が飛ぶのですが、西尾さんは屁でもありません。
◆ここに登場する西尾議員は、ファシズムに対する共鳴を示した上に、さらにスターリンを同列に持ってきたのです。この後、西尾議員は除名処分を受けるわけですが、当然といえば当然かも知れません。それにしても、この辺りは当時の政治レベルの低さを象徴する出来事なのかもしれません。
〓 結局日本人は歴史に学ばなかった
■239ページ
「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」
何たることか、ノモンハンの時にすでにわかってたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけ多くの人をホロンバイルの草原で犠牲にしながら何も学びませんでした。昭和史の流れの中で、ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という負けるに決まっている、と後世のわれわれが批判するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。いや、今も学ぼうとしていない。
◆ノモンハン事件は1937年にソ連軍、モンゴル軍と対峙し敗北した戦争です。当時、兵站のまずさや装備の劣勢が問題にあがりながら、そのものを改善せずに精神論に陥ったといいます。それにしても、半藤氏の「今も学ぼうとしていない」という見解は確かにそうなのかもしれません。最近思うのは、日本人は論理的な検証が苦手なのではないかということです。会社でも政治でも、結果のみを述べて、その結論に至ったプロセスは全く見えてきません。東電の値上げしかり、消費税の増税しかり、オスプレイの配備しかり、改正著作権法しかりです。
〓 外の世界が見えていなかった日本
■267ページ
それにしても、政府や軍部の「見れども見えず」は情けないかぎりです。が、こうやって昭和史を見ていくと、万事に情けなくなるばかりなんですね。どうも昭和の日本人は、とくに、十年代の日本人は、世界そして日本の動きがシカと見えていなかったのじゃないか。そう思わざるをえない。つまり時代の渦中にいる人間というものは、全く時代の実像を理解できないのではないか、とう嘆きでもあるのです。とくに一市民としては、疾風怒濤の時代にあっては、現実に適応して一所懸命に生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもいなかった。
これは何もあの時代に限らないのかもしれません。今だってそうなんじゃないか。なるほど、新聞やテレビや雑誌など、豊富すぎる情報で、われわれは日本の現在をきちんと把握している、国家が今や猛烈な力とスピードによって変わろうとしていることをリアルタイムで実感している、とそう思っている。でも、それはそうと思い込んでいるだけで、実は何もわかっていない、何も見えていないのではないですか。時代の裏側には、何かもっと恐ろしげな大きなものが動いている、が、今は「見れども見えず」で、あと数十年もしたら、それがはっきりする。歴史とはそういう不気味さを秘めていると、私には考えられてならないんです。ですから、歴史を学んで歴史を見る眼を磨け、というわけなんですな。いや、これは駄弁に過ぎたようであります。
◆日本はかつて、鎖国によって外の世界を全く見ないようにしていた国です。日本人の集団主義がやはり影響しているのでしょうか。昔から集団の中での遇し方に力を注いで、外の世界との交流が少なかった。元来日本国民の性格は、内向的なのでしょうか。
そして、この国民性だけは反省などで変えられるものではない。今、尖閣諸島問題で中国との軋轢がありますが、戦前昭和の日本と中国の関係と、現在のそれとでは明らかに違うのに、全く同じような対応をしている。これが領土問題に発展したときに、日本の外務省はどう対応するつもりなのでしょうか。相変わらず外との関係をしっかりと把握していないように思えてなりません。
半藤氏がここに引用した文章で述べようとしているのは、日本がかつて戦争へと向かった道程を今に照らして、現在が当時と同じような状況にあることを示しているのです。
〓 第二次世界大戦の始まり
■270ページ
その山本五十六は8月31日午後1時、特急かもめ号で東京を出発しました。ベルリン時間では31日午前5時です。列車が大阪に近づきつつある頃、ヒトラー総統は第一号命令書にサインしました。
「ドイツ東部国境における耐えがたい状況を、平和裏に解決するいっさいの政治的可能性がなくなったので、私は力による解決を決意した。ポーランド進撃は決められた計画に従って行われる。……攻撃開始日1939年9月1日、攻撃開始時間4時45分……」
これに基づき、9月1日未明、フォン・ボック、フォン・ルントシュテット両元帥指揮の150万のドイツ軍部隊が一斉にポーランド国境を越えて進撃を開始しました。第二次世界大戦がこの瞬間に始まったのです。
◆ついに、第二次世界大戦が勃発しました。
〓 政治家の最後の抵抗
■275ページ 1939年
「支那事変が始まってからすでに二年半になるが、10万の英霊を出しても解決していない。どう戦争解決するのか処理案を示せ」
陸軍は「聖戦の目的を批判した」と起こって逆に斎藤議員を追い詰めましたが、斎藤議員が、
「私は議員を辞任しない、文句があるなら除名せよ」
と啖呵をきると、陸軍は本当に斎藤議員を除名してしまいました。その横暴さはそれほどにひどくなっていたのです。これが議会の「最後の抵抗」だったのではないでしょうか。つまり、政党が有効性を失った、象徴的な出来事だったと思います。
◆第二次世界大戦が始まるとほぼ同時に、日本は軍国主義への道を歩みだした。
〓 ドイツが勝ったから日本も勝つ?
■285ページ
ところがドイツの連戦連勝を知ると、「日本だって」と、軍人というのは強気なるようです。アメリカがビンソン案(第一次~第三次海軍拡張計画)のもと太平洋・大西洋の両洋艦隊用の軍艦をどんどんつくって急速に軍備拡張しており、いずれは日米艦隊比率は問題にならないほどアメリカ優位となる、それはなんとかして避けたい、と頭を悩ませている折に、アメリカが昭和15年1月に日米通商航海条約を完全破棄したばかりでなく、ルーズベルト大統領は、石油や屑鉄などの日本への輸出を政府の許可制にしました。これは日本海軍には衝撃でした。いくら軍艦があっても燃料がなければ動かすこともできない、ならば万一に備えて鉄や石油などがとれる東南アジアのジャワ、スマトラ、ボルネオといった資源地帯に進出して資源を確保する必要がある、それにはどうしても仏印(フランス領インドシナ三国、とくに現在のベトナム)まで兵力を進出させておく必要がある、いざとなればそこを基地にしてアメリカの根拠地フィリピンを叩かねばならないからです、しかし南進をあらわにするとアメリカは怒って日本への輸出を全面禁止とするだろう、ならばいっそう開戦に備えて油田獲得ためのオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するほかない、となると、これはもう対米戦争は必死……という堂々めぐりの結果、現在のベトナムへの進出の必要性が出てきたのです。
◆これが不思議なところです。当時は日米は条約を結んでいてその限りでは日本が米国から攻め込まれることはなかった。しかし、日独伊が同盟を結ぶことでアメリカが敵になります。そうすると攻め込まれる前に先制攻撃を仕掛けなければならない。そのためには軍備増強が必要。でも石油がなければ兵器は動かない。そこで石油を調達するために南進をする。結局戦争のための戦争をやっていたわけです。それにしても、ドイツが勝ったから日本も強気なるというのはいかにも子どもっぽい話です。
〓 どんな時代にも私服を肥やすやつがいる
■290ページ
そして宇垣さんの日記『戦藻録』を眼を大きくあけてよく見ると、
「条約締結の裏面の目的は、海軍としては、いや自分の願うた点は達したのである」
と書いています。これはどういうことか。「裏面の目的」とは何なのか。海軍の戦備をみれば、莫大な予算を使って大和や武蔵などの超大戦艦をつくっている。それはアメリカと戦争をするためではないのかと陸軍からつつかれます。なのに、いざというときに戦争はできない、なんて口が裂けても言えないではないか。言ったら予算がパアいになる。これはたまりません。宇垣さんはむずむずしながらも、三国同盟を結べば、結果として予算をより多く獲得する条件を陸軍につきつけて約束させることができる、裏取引をやれると考えた。つまり、軍備予算の獲得が条約締結の裏面の目的だったわけです。情けないことに、金のために身を売ったんです。いや、魂を売った──そう言うと酷ですが、それに近いのではないですか。
◆宇垣さんとうのは、今で言う原発推進派の土建屋のようなものではないか。結局戦時にあっても利益誘導をする人間は現れる。それでいて一般国民には、滅私奉公せよ、お国のために命を賭けよという。これでは戦死した国民は浮かばれません。
〓 まるで学生のノリではないか
■314ページ
じつは、これはみな薩摩か長州出身の気心が知れた連中で、しかもヒトラー大好きのドイツ賛美者でした。石川大佐はいったといいます。
「ナチスはほんのひと握りの同士の結束で発足したんだ。われわれだって志を同じくし、団結しさえすれば、天下何事かならざらんや」
すると藤井中佐は、昂然としてこう言うのを常としました。
「金と人(予算と人事)をもっておれば、このさき何でもできる。予算をにぎる軍務局が方針を決めて押し込めば、人事局がやってくれる。自分がこうしようとするとき、政策に適した同士を必要なポストにつけられる」
また、かつて井上成美中将に「三国同盟の元凶だ」と叱責された柴中佐は言いました。
「理屈や理性じゃないよ。ことを決するのは力だよ、力だけが世界を動かす」
というわけで、昭和15年春、海軍中央は対米強硬路線でぐんぐん走り出してゆきます。
◆理屈や理性じゃなく力だとおっしゃる。まるでダースベーダーがダークフォースを信仰するようなものです。このような人物が国の中枢にいたのでは、その国が滅びるのは当たり前です。
〓 もう遅い、ハルノートはふっとんだ
■352ページ
「物がなくなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早いほうがよいと思います」
つまり石油の輸入禁止で日本はどんどん貧しくなる、どうせうまくいかないのなら、早く戦争をしたほうがいいのではないかというわけです。天皇陛下は驚いて聞きました。
「戦争となった場合、(日露戦争の時の)日本海海戦のような大勝は困難だろう」
永野はしゃあしゃあとして答えます。
「日本海海戦のごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつきません」
海軍の全作戦を統轄する人がこう言うのです。要するに、繰り返しますが、日本は戦争するには資源調達のため南部仏印に進駐しないとだめなんですね、しかしそうすればアメリカとイギリスがカンカンに怒って戦闘行為で報いてくるのはわかっているわけです。それでも、もしかしたらそうならないんじゃないかという楽観のもとに、こういう決定をしたということなんです。これで戦争への道から障害は突き破られました。例の石川信吾大佐はこう言いました、「石油を止められれば戦争だよ」と。日米諒解案なんて吹っ飛ぶと同時に、野村とハルの地道な交渉もこの瞬間に吹っ飛び、日米交渉もしばらくは中止ということになりました。
◆つくづく、かえすがえすおろかな戦争であったというのは明確です。負けると判っていてけんかするというならまだしも、この場合は戦争ですから、無謀というほかありません。
〓 おろかな戦争を始めないための三つの教訓
■503ページ
よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史はたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。
(中略)
では昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます。
第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました。結果的には海軍大将米内光政が言ったように“魔性の歴史”であった、そういうふうになってしまった。それはわれわれ日本人が熱狂したからだと思います。
■504ページ
二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な概念論を好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込みになるのです。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境線に兵力を集中し、さらにシベリア鉄道を使ってどんどん兵力を送り込んできていることはわかったはずです。なのに、攻めてこられると困るから来ないのだ、と自分の望ましいほうに考えをもっていって動くのです。
■506ページ
三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があると思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力を持ち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、まさにその小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います。
(中略)
さらに五番目として、何かことが起こったときに、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。
◆一つは集団主義的扇情、二番目は論理的検討力不足、三番面は固陋と無謬性。五番目の短絡的発想というのは二番目の論理的検討力不足と同義だと思います。
この本は最近日本で嫌われている自虐史観なるものを彷彿とします。しかし、まさに半藤氏がこの本で指摘したのは、自らの問題点を省みず避けるようにして、むしろ根拠のない自信と熱狂へと走る国民性でした。そして、歴史に学ぶことが重要であるとしています。しかし、実際には当時と全てが同じ状況ではないし、今後仮に世界的に戦時下に突入するにしても、全く違う形態となることが予想されます。つまり、大筋は同じような流れになるが、表面的には私たちはそれを戦争と認識できない可能性もあるのです。
私たちは過去の歴史に学ぶと同時に、程度や形態の違う戦争への突入を予測する必要があると思います。私はこれまで、戦前昭和の歴史を、5冊の本で紐解いてきました。その中で現代と共通するのは、世界的恐慌と格差の拡大、新興国の台頭と技術的転換、グローバリズムとブロック化、などです。これらの共通点に対し、異なる側面として、当時よりも圧倒的に進化した機械文明と、それによる完全な個の接続があります。そして、新たな戦争は兵器がより高度となり、ロボット兵器がその主役をなすだろうといわれています。
これまで、五冊の書籍を資料として読み、そのために記事は引用とその引用箇所に対するコメントという形で記事にしてきました。今後の記事では、格差や貧困と戦争との関係を明らかにし、そして、ロボット兵器による新たな戦争がどのように起こるかを、いくつかの書籍を参考にしながら考察していきたいと考えています。
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