昭和と戦争

美化されつつある死を見極めよ 『総員起シ』 吉村昭著

総員起シ〈新装版〉 (文春文庫)

 戦後70年経った今も戦争の記憶は多く書籍に生きている。この事実が私たちの将来に語りかけるのは、人々の死に対する忌避と羨望との葛藤である。
 吉村昭の小説『総員起シ』は戦争の現実を美化するのではなく、まして悲惨さを訴えるものでもない。ただただ、その時の人々の表情を記録したものだ。

 『総員起シ』を読んだきっかけは、アマゾンで購入した長いタイトルの電子書籍「戦後70年記念企画 半藤一利・佐藤優 初対談 あの戦争を知るために今こそ読むべき本はこれだ!」である。この紹介記事には、『総員起シ』の中に、北海道の終戦時の出来事が記載されていることが書いてあった。実は、私の父母は揃って樺太からの引揚者である。しかし、樺太引き上げに関する記述をした小説は数少ない。そのため「これはぜひとも読みたい」と、私はそう思ったのだ。

『総員起シ』は5編の短編小説で構成されている。

 「海の柩」は北海道中央南端のえりも地方の小漁村で、終戦間際に数多の兵士の水死体が浜辺に打ち上げられた出来事が綴られている。そして、その多くが手首を切り取られていたという。そのおぞましい事実の理由が徐々に明らかにされていく。
 「海の柩」を読んでいるうちに、この小説を読むきっかけとなった「あの戦争を〜」の文章が気になった。そこには、船上で手首を切ることなど到底不可能だ、という記述がある。よもや吉村昭の小説に虚偽があったのあろうか。しかし、もう一度「あの戦争を〜」のその部分を読み返すと、それが大きな勘違いであることが分かり、私は安堵した。虚偽の記載をしたのは吉村昭ではなく、吉田満著『戦艦大和ノ最後』という小説であるらしい。やはり、吉村昭は事実を曲げない小説家なのである。

 「手首の記憶」は樺太市民の引き上げ時の出来事だ。私の母から聞き出した当時の記憶と重なるところが多くある。樺太では終戦後もソ連による戦闘が続いていたことは、多くの記録にある通りだ。しかし、この事実は日本国内では今や知られていない事実であることが多くなっているのではないか。

 「烏の浜」は留萌の近郊の沖合で沈没した樺太引き揚げ船「小笠原丸」の実像をあぶり出す。この事実もやはり私が母より聞いた記憶と一致するところが多い。

 「剃刀」は一転して、沖縄戦における日本軍の戦闘の模様を記録している。美化された戦闘の模様を取材により覆し、混乱の中における人間模様を事実として記録したものだ。

 そして、最後の「総員起シ」は、終戦後間際の「伊号第三十三潜水艦」の訓練時における事故を記録した。5編の短編の中では最も長く、そして圧巻である。前4編と異なる何かが吉村昭によって注ぎ込まれる。そう感じざるを得ない。しかし、それは怒りではない、何かの力が注ぎ込まれているのだ。その筆力は、私の臓物まで染み込んでくるようであった。まさしく『総員起シ』は今こそ読むべき本なのである。

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戦争のリアルⅡ、『戦争するってどんなこと?』 C・ダグラス・ラミス著

 いま、日本で安全保障に関する議論が膾炙されている。「抑止力」「国民を守る」「積極的平和」など、もったいぶった理由をつけ、そして、しまいには平和維持のため、などと真逆のことを述べるものも多くなってきた。憲法違反かそうではないのか、何が武力行使にあたるのか。どうなったら自衛隊は武力を行使できるのか。
 しかし、ここに欠落した議論があった。それは、「戦争とは何か」ということだ。結局、現実的な戦争については誰も述べなかったのだ。当然なのかもしれない。今や戦争体験者は殆ど日本の国土から消え去ってしまっているのだ。戦後生まれの政治家が、戦争のリアリティを語れないのは当然なのである。
 そこには大きな違和感があった。だからこそ、多くの国民は安保法案に反対した。その違和感はつまり、安保法案が戦争をより身近なものにすると感じたからだろう。多く安保法案反対者は戦争を忌避するべきものと感じている。そして、安保法案賛成派は、戦争は人類として避けられないものと考えているのかもしれない。しかし、双方とも、本当の戦争を知っているのだろうか。本当の戦争について知らないから議論がかみ合わないのではないか。戦争するとははたしてどういうことなのか。それを知るために私はこの本を読んでみた。

 この本では、まず戦争の定義について語られる。
※この本は中学生に対する講義を書き下ろした形式となっており、本文中のダッシュ“───”以降は、学生の質問となっている。

12ページ
 戦争の物理的な定義にかんしては、あんまり議論がありません。戦争とは組織同士の集団暴力だということは、だいたいみんなが認める定義です。ところが、戦争を法的に定義しようとすると、意見が分かれます。集団暴力でも合法でもなければ戦争とは呼ばないで、暴動、テロ、犯罪行為と呼ぶ、という考え方もあります。合法でなくても行動が同じなら戦争だという考え方もあります。誰もが賛成する法的な戦争の定義はありません。
 ところで、日本国憲法の第9条には「国の交戦権は、これを認めない」と書いてあります。交戦権とは、国が戦場で人を殺し、財産を破壊する権利です。
───人を殺し、財産を破壊する権利?
 はい、世界的に認められている権利です。この権利の背景にあるのは、「近代国民国家は合法的に暴力を使う権利を独占しようとしている組織である」という考え方です。これは近代国家、つまり今世界中にある国々の定義の一つです。

 実の所、自衛権は日本国憲法でも認められているが、交戦権は認められていないというのは自明の事なのだが、一部の人々にとってこれは矛盾していると捉えられているようだ。しかし、自衛権と交戦権は全く異なる。そのことは本書を読むとわかってくる。

13ページ
 近代国家が合法的に持つ暴力は3つあります。警察権と刑罰権と交戦権です。
 警察権によって、警察官はピストルを持っている場合によって人を狙って撃っても、任務として行った場合は合法です。容疑者を捕まえるために銀行強盗を撃っても、犯罪にはなりません。国家が警察という、人に対して暴力を使う権利を持っているからです。
 近代国家が持つ2つめの合法的な暴力は刑罰権です。国家は裁判所で有罪判決が出た人を監禁することができます。ふつうは人を監禁すると犯罪になりますが、裁判所が有罪と認めた人を国家が刑務所に監禁するのは刑罰です。数年間閉じ込めて外に出さない(これも暴力です)権利が国家に認められているからです。国によっては、監禁するだけではなく、殺すこともできます。裁判で死刑判決が出た人を殺す権利を国家に認めている場合です。死刑を廃止した国は多いですが、日本は廃止していません。日本では刑罰として国家が人を殺しても、殺人にはなりません。
 3つめは交戦権で、戦場で人を殺す権利です。国にこの権利があれば、兵士が戦争で人を殺しても、それは殺人罪になりません。けれども、日本国憲法第9条には、「交戦権は、これを認めない」と書いてあります。

 「集団的自衛権は国際法によって認められている。当然、日本も集団的自衛権を持っていて、今は法律上それを行使しないだけだ。」
 かつて政府も一部の評論家もそのように語っていた。しかし、集団的自衛権の必要性について、同盟国を守るためと語るばかりで、具体的な話になると一向にらちが明かない。当然である。集団的自衛権は交戦権を前提としているのだ。実際に戦闘になったら、交戦規程(自衛隊では部隊行動基準)に則って相手方に攻撃を加えるのである。これは交戦権の行使以外の何物でもない。ここを語ると、安保法制は憲法違反であることが明白になる。だから新三要件などとあいまいなもので議論をとどめていたのかもしれない。

 日本は憲法9条によって交戦権を禁止している。そのために、軍隊を持たずに自衛隊(警察予備隊)という、重火器を使用する警察部隊を擁立したのだ。この矛盾した組織は、装備とその役務に乖離がありすぎる。ここが安保法制を分かりにくいものにしている。政府としては何とかして自衛隊を軍隊と同じ役務につかせたい。そうして、アメリカと同じ部隊で作戦行動に参加させたいのだ。これは、アメリカ側の要請なのだろう。しかし、軍隊ではない自衛隊の行動は、警察権の及ぶ範囲でなければ武力が使えない。なぜなら、日本には軍法も軍法裁判所もないからだ。
 日本の自衛隊は軍隊ではない。反論があるだろうか。端的に述べるなら、自衛隊は人を殺すという本来の軍隊の目的を所持していない。人を殺す訓練を受けていない者が戦場に入り込めば、どのような悲惨な事態になるか、戦争を知らない政治家の想像力は及びもしなかったようだ。
 この本の著者であるダグラス・ラミスは、軍隊というものについて、その実体験から次のように語っている。

32ページ
 兵士の仕事は敵を殺すことです。
 日本では戦争というと、国のために死ぬとか、命をかけるとかのイメージが浮かんでくるかもしれません。第二次世界大戦のときの太平洋戦争でたくさんの兵士が亡くなりましたから、そういう歴史的な体験の影響だと思います。けれども、死ぬのは兵士の仕事ではありません。ぼくは3年間海兵隊で任務についていて、予備役の期間も入れれば10年間になりますが、その間死ぬ訓練をしたことはいちどもありません。死ぬとすれば、それは失敗で、訓練が足りなかったか運が悪かったということです。
 ほかの組織と違って軍の特徴は人を殺すことです。ですから兵士の仕事は殺すことで、もちろん、反対に相手に殺されるかもしれません。
 人は人を殺すことに対して心の中に抵抗があります。普通の社会で育てられた人なら、簡単には人を殺せません。相手を「殺せ」と言われたからといって、なかなかできるものではないのです。ですから、兵士の訓練では、死ぬかもしれないという恐怖を愛国心などで乗り越えるようにする訓練とともに、相手を殺せるように、殺すことに対する抵抗を乗り越えるための訓練をします。この訓練を受けることから、兵士の仕事がはじまります。

 この後に本書では、人にとって人を殺すことがいかに難しいことであるか。そして、戦争において民間人を殺さないことがどれだけ困難であるかが語られる。もし今後、大きな戦争となった時は、大量破壊兵器によって多くの民間人が殺されることになる。それは戦争というゲームに参加した時点で確定されたことなのかもしれない。

51ページ
 当然ですが、都市への無差別空襲の犠牲者は殆どが一般の人々です。  そして広島、長崎へ原爆が投下されました。究極の無差別殺人です。
 現在に至るまで20世紀の戦争は、非戦闘員、一般の人々を兵士よりもずっと多く殺しています。戦争の死傷者の数を知ることは非常に難しいです。戦死者の10%だけが兵士で、90%が民間人だとよく言われますが、その数字を疑う人もいます。第二次世界大戦による戦死者は5000万から8000万人で、そのうち民間人の数は3800万から5500万人という推定があります(この数字には餓死と病気による戦死も入っています)。それなら68~75%が民間人になります。

 よく、戦争反対を唱えると「では中国に侵略されても良いのか」「日本国民が蹂躙されても見過ごすのか」など、しまいには「お花畑」な思考などと言い出す。しかし、戦争の現実を観ずに、勇ましさや強さを自分に投影してあたかもそれが人々を被害から守る唯一の手段であるように語るのは、まさに戦争ロマンチシズムと言わざるを得ない。
 著者はこののちに、多角的に戦争の現実を語る。大量殺戮兵器、軍需産業に支えられる経済、難民の発生、テロとの戦いは戦争なのか、戦争によってもたらされる人類史上最大の不本意や理不尽を語り、非暴力抵抗が決して不可能な行動ではなく、現代社会だからこそ実現可能な、むしろ人間的なあり方なのだと語る。

 かつてフランス革命を橋頭保とし、民主主義は世界中に広まっている。その後、民主主義国を謳う先進国は植民地を作り、経済的な繁栄を求めてきた。それは武力によってである。やがて、他国の国民を武力で支配するという植民地は地球上から消えて、現在はその地域の利権を獲得するために武力が行使されている。
 これは、武力に守られた権力構造が、地域という狭い範囲から、国家間という広い範囲に拡張されたに過ぎない。民主主義による武力行使は、国家内での武力対立を平定する手段としてのみ有効に機能するが、国と国との間に発生する紛争に対しては全く無効なのである。つまり、国家間民主主義はいまだに成立していない。だからこそ、話し合いで解決しようとする前に、武力を行使しようとするのであり、国際法では交戦権が認められているのだ。
 遠い遠い人類の未来の中で、いずれ国際的な民主主義が確立される時が来るのだろうか。物事は武力でなく話し合いによって解決されるべきである、という日本国憲法の理念が、世界の当然の権利と認めれられる時がいつか来るのか。
 この本は、現在の人類が実はまだまだ未熟であり、民主主義国の国民が独裁政権を持つ国を嗤える状態ではないことがよくわかる本なのだ。果たして、私たち日本人は、人類のこの遠い先の世代に受け継ぐべき、あるいはそのころには常識となっている平和の理念を、ここで放棄しても良いものだろうか。おそらく、日本人は終戦当時のように、もう一度間違った選択をしてしまった事に、苛まれるのではないだろうか。

28ページ
 たしかに、日本国憲法は世界でも珍しい憲法です。交戦権を認めないという言葉はほかの国の憲法にはないと思います。軍隊を持たない国はあります。たとえば、コスタリカは軍隊を持っていませんが、憲法に交戦権を持っていないとは書いてありません。ほかにも軍隊を持たない国はあります。小さい国は軍隊を作っても勝てませんから、軍隊があってもしょうがないのです。でも、交戦権という権利を放棄している国は珍しいのです。
 ですから、日本の平和憲法を非常識だという人もいます。その通りです。では、常識はどういう世界をつくったでしょうか。
 すべての国家には正統な暴力の権利として交戦権がある、という考え方は20世紀の歴史をつくりました。それは、国家の暴力によって殺された人が史上最大の世紀となりました。新記録です。これほど人々が政府によって殺されたことは、歴史の記録が始まってからありませんでした。昔から戦争はありましたが、20世紀は人を殺す技術がどんどん進んで大量破壊兵器によってけた外れに多くの人が殺されました。また、軍需産業がこれほど巨大化したのも20世紀でした。

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戦争の記憶と密やかな生活 『小さいおうち』 中島京子著

小さいおうち (文春文庫)

 本の表紙をめくる。すると、老女の淡々とした話から始まる。どうやらこの老女は昔話をしているようだ。どうやら自慢話のようでもある。

 読み進むうちに、この老女は自分の過去を書籍にしようとしることが分かる。なんとも無謀ではないか。この老女は、実は出版社に騙されているのではないだろうか。そもそも、話の内容がパッとしない。こんな話を書籍にしても売れるわけがないではないか。

 さらにこの本を読み進む。老女がどのような人物であるか大体わかってきた。この老女は昭和5年に山形の尋常小学校を卒業し、同時に東京へと奉公に出されたらしいのだ。最初は小説家の家の女中になったという。

 この老女は奉公中にタキちゃんとか、タキさんとか呼ばれたらしい。だからこれからは私も老女のことをタキさんと呼ぶことにする。
 タキさんは小説家の家に奉公した翌年に別な家に奉公することになる。その年、昭和6年に奉公したのは浅野家だったという。浅野の旦那は収入が少なくしかも酒飲みだったようだ。
 この時の奥さんが滅法美人であったとタキさんは絶賛している。名前を時子さんという。残念ながらこの時子さんの旦那さんは翌年に亡くなってしまう。時子さんには恭一という幼い子供がいるというのにむごいことである。ところがタキさんは、この時、旦那さんが亡くなってよかったと思ったようだ。おそらくタキさんは時子さんの不遇を嘆いていたのだろう。
 タキさんはそのまま時子さんについていく形となった。いったんは浅野家の実家に引き上げる。やがて時子さんは平井氏と再婚する。もちろん、タキさんも時子さんについて平井家に奉公することになったわけだ。昭和7年のことだ。このとき時子さんは22歳、タキさんは14歳である。

 そして3年後、つまり昭和10年に平井家は家を新築する。洋風でこじんまりしていて、屋根が赤い。この家が、タキさんが後の10年間を過ごす「小さいおうち」となった。

 なぜ私が、くどくどとこの小説の時系列をつけて述べるかというと、ここにしっかりと伏線が敷かれているからだ。この小説の地の文章であるタキさんの手記では、その出来事が昭和何年に起こったことなのかを記録している。時々あいまいな記憶もあるようだが、おおむねあたっているようだ。この時系列を意識しながら読むと、恋愛小説というよりも、戦前昭和を語る歴史小説にも読めてくるから不思議だ。
 昭和16年の年末に家族でスキーに行ったり、昭和17年に小規模な東京空襲があったり、その翌年は東京市の市議会議員がいきなり首になったり。昭和19年4月ごろには山形の神町若木原の飛行場建設が始まったという話も登場する。この飛行場建設では、もっこ担ぎに中学生が徴用されたそうだ。
 こんな風に、戦時下の小さなできごとがタキさんの話にはちりばめられている。そして、おしまいのページに近づくと、徐々にミステリーが展開する。

 語り手は老女だし、話は昔の話であるが、ストーリーの構成は新鮮であった。ただし、この小説は読み手の意識で結構その印象が変わると思う。

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東日本防潮堤建設への困惑とあの戦争 『日本軍と日本兵』 一ノ瀬俊也著

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

 既に日本人の中から戦争体験が消え失せ、日本全体が戦争に向かった時代、つまり戦前昭和に逆戻りしているように見える。しかし、実際には私達は既に戦争と似たような体験をしているのかもしれない。それが、3年前の東日本大震災ではないだろうか。

 東日本大震災から3年を過ぎた現在、津波の被害にあった市町村では、防潮堤計画に揺れているという。海と生活環境を切り離す、見上げるほど高く威圧的な防波堤が、果たして必要なのだろうかという議論だ。
 防潮堤計画で問題になるのは、防潮堤が海と生活圏を分断することで、住民の生業が犠牲となることである。一方で、防潮堤の設置を推進する政府は、防潮堤を建てなけれ住民は危険にさらされるという。
 最近はすっかり新聞紙面からは影をひそめていた防潮堤問題が私の眼に止まったのは、この問題が最近になりテレビの特集で取り上げられたからだ。もしこの番組を視ていなければ、私は政府自身が被災地の生活復興を阻害していることに気づきもしなかったに違いない。

 そんな折にこの本『日本軍を日本兵』を読んだ。この本は、米国が近年公開した当時の資料に基づき、第二次世界大戦中の南方戦線における日本帝国陸軍兵士の実態を検証したものだ。読み進むと、現在の防潮堤計画の問題と、当時の南方戦線との問題に横たわる、奇妙な共通点に気づいた。
 それは、政府あるいは軍の目的は日本国家や地域集団を守るとしながらも、実は個人は犠牲になっているということだ。双方とも、結果的には守るべきものは個人ではなくあくまでも集団、つまりはその中央にいる権力側を守ることが目的なのである。
 例えば、現在の防潮堤計画をみると、次のような疑問が浮かぶはずだ。ある地域では、防潮堤により海岸線がその下敷きとなり、本来はアサリやその他の漁獲物を生業とできるべきところを失うことになる。そもそも、人々は生業のない土地に住む理由があるのだろうか。もし、住民が生業を失うことで、そこに住む者がいなくなったとして、そこに建てられた防潮堤は何を守るのだろうか。さらに、最近は学校校舎の耐震化が一部滞りを見せているという。防災という意味では、100年の津波を想定した防潮堤よりも、今後地震が発生する確率が高いと言われる関東および南海トラフ近辺の耐震化を優先するべきなのは明らかである。

 そもそも「防潮堤計画」は震災の半年後、9月に国会で出された「国土強靭化基本法案」に基づく。そしてこの「国土強靭化基本法案」は、藤井聡という人物が書いた『国土強靭化論』に由来する。そして、この論ではハードのみならずソフト面も重視するはずが、防潮堤計画ではハード面のみが推進される。しかも、防潮堤の建設は地域復興計画とセットとなり、防潮堤の建設を受け入れなければ、地域の復興予算はつかない仕組みとなっているのだ。
 ここには、政府側の、なんとしてでも防潮堤を建てたいという強い意向がうかがえる。住民の意見を取り入れるという前提はあらかじめ排除されている。おそらく、どこかの時点で防潮堤を建てることが目的となり替わり、市民の安全や生活の向上は、その目的から欠落しているのだろう。
 もし、政府側が市民の生命や安全を本当に考えるならば、まず居住地を津波がこない場所へと移転させる計画を優先すべきである。それが防潮堤の建設が決定しないと進まないのであれば、市民の生活を復興させるという本来の目的に大きく矛盾する。

関連リンク:宮城県の防潮堤建設計画に対する津波被災地住民の困惑

 同じようなことは南方戦線でも行われていた。これらの群島支配を守るために多くの日本人が派兵され、その島の防衛を強いられた。つまり、彼ら自身が防潮堤となったのだ。島では日本兵は「穴掘り屋」となり、一時は島の奥へと陣取った。ところが、アメリカ軍が島に上陸することを許せば、日本軍は殲滅することが必至であることが分かる。そこで、日本陸軍は水際作戦に転じ、海岸線の防衛へと作戦を変えたのだ。
 これにより結果的に日本兵はそのほとんどが玉砕することになる。もっとも、日本陸軍の指揮官側には最初から日本が米軍に負けることは分かっていたようだ。つまり、日本を守るためと説いて南方に市民を派兵したが、それは日本を守るという意味では合理的ではなかった。だとすれば、第二次世界大戦における9割の戦死者を出した南方への侵攻作戦を遂行する合理的理由とは何だったのだろうか。そこにあった守るべきモノとは、実は自分たちであったのだ。その守る者とは指揮官側の威信であり面子であったのだ。

249ページ
 ただしこの水際撃滅が一度は成功したとしても、米軍は必ず逆襲してくるはずである。このことについて原元中佐はどう考えていたのだろうか。
 彼は言う、「ただ一度でいいから勝ちたかった。南九州の決戦、それも志布志湾の決戦で勝ちたかった、意地だった。そして陸軍の最後の歴史を飾ろうと思った。政治は、本土決戦によって終戦に移行しようと考えていたかも知れませんが、私の考えは上陸する敵の第一波だけでもいいから破摧したかった」と。つまり一回勝ったという陸軍の面子さえ立てば、第二波以降はどうなろうとよかったのだ。
 問題は、このような一般国民からすればたまったものではない勝手極まる願望が、原の水際撃滅論のような狭い意味での〈合理性〉により正当化、粉飾されていたことだ。陸軍幼年学校、士官学校本科・予科、陸軍大学校をすべて主席で通した超のつく秀才の原にして、〈合理的なるもの〉のはらむ悪魔的な力に生涯魅入られ続けていたかのようである。

253ページ
 要するに、ジャングルと異なり隠れ場所を得られない平地での戦は、日本軍の惨敗という結果に終わるだろう、ということだ。前出の原志郎参謀は戦後の講演で「特に南九州で勝ちたい」と述べていた。広大な関東平野で米軍に勝てる見込みは端からない、と内心わかっていたからこそ、そのような発言となったのかも知れない。ちなみに『TM-E 30-480日本軍ハンドブック』第7章には「日本軍将校にとっては対面と志操の維持が最も重要であり、それゆえ空想的な英雄気取りとなりがちである」との指摘がある。

 自民党はその復活時に提示した「国土強靭化基本法案」を引っ込めるわけにはいかない。いかに地域住民の生活や海産資源の枯渇があったとしても、自分たちの計画が完遂されなければ、その対面や威信にかかわると考えているのではないだろうか。同時に官僚にとっては日本の予算を自らの手元に手繰り寄せる投網の手綱を今更手放す理由はないのだ。
 そして、安倍首相は今まさに「空想的な英雄気取り」になっているのではないだろうか。この本を読むことで、日本人が抱える忌まわしい過去から抱え続ける、ある種の病理に気づくことができるかもしれない。

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終戦前8年間の地獄を見た者は敗戦に夢を見たのか 『日本近代史』 坂野潤治著

日本近代史 (ちくま新書)

 昔には、司馬遼太郎の明治維新の小説を読み漁った。最近になって、昭和前期の動乱を中心に書いた本を多く読んだ。明治と昭和は、大正を挟んでつながっている。しかし私の歴史観には、明治から昭和にかけてのつがなりが欠落していた。
 そしてこの「日本近代史」は明治維新から昭和前期までの通史である。明治、大正、昭和の日本がつながりが見えて面白い。大さっぱにいうと、明治維新以降の日本にあったのは、薩長土肥の台頭である。
 日本には敗北という言葉あるように、南に日本を支配した源流があり、北には逃亡した先の支流があるのだ。そして、今でもこの川の流れは地下水脈となって流れているのかもしれない。

 この本は、終戦ではなく、太平洋戦争の一歩手前で終わる。なにゆえ中途半端ともいえる終わり方をしたのか、著者は次のように言い訳をする。

>436ページ
 しかし、第一次世界大戦を学び、そのうえで1937年の国際情勢の中に日中戦争を位置付けた者にとっては、日中戦争の勃発が1941年の太平洋戦争の原因となり、太平洋戦争の勃発の結果が、1945年の焼け野原になることは、ほとんど自明のことであった。
 こういう恐ろしい未来図は、何とか日中戦争を回避し、日米戦争を回避しようとした者たちには描きにくい。日米戦争を覚悟し、その結果としての焼け野原をも覚悟して日中戦争を戦おうと思っていた好戦論者だけが、1937年の時点で1945年の地獄絵を描くことができたのである。
>おしまいのページ
 これ以後の8年間は、異議申し立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界がどこにも存在しない、まさに「崩壊の時代」であった。異議を唱える者が絶え果てた「崩壊の時代」を描く能力は、筆者にはない。
「改革」→「革命」→「建設」→「運用」→「再編」→「危機」の六つの時代に分けて日本近代史を描いてきた本書は、「崩壊の時代」を迎えたところで結びとしたい。

 描く能力がないと言い切るのは謙遜なのか、あるいは実際に筆が立たなかったのであろうか。確かに、司馬遼太郎は第二次世界大戦を描くことを頑なに拒んでいた。拒んでいたというより、描く価値さえないと考えたのかもしれない。

 小説にする価値さえなかった8年間。私はここでよこしまな考えをもってしまう。この8年間を乗り越えれば、次に来るのは果たして明るい未来のだろうか。8年間という人生の中で10%程度の時間を耐え抜けば、荒野の向こうには緑の平原が広がっているのだろうか。

 いや、待ってほしい。わたしたちは本当は戦争を回避しなければならないのだ。この本には戦争を回避しようとする政治家の興亡が描かれているではないか。彼らの中には凶弾に倒れた者も多い。しかし、それは決して無駄死にではなかったはずだ。いや、そうではなく無駄死ににしてはいけないのだ。といっても、やはり私も死ぬのは嫌だし、そんな力などみじんもないのだが。
 人間は何度も同じ過ちを繰り返してきた。はたしてそれが、人間というものなのだろうか。

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新しい戦争のかたち 『ロボット兵士の戦争』 P.W.シンガー著

ロボット兵士の戦争

〓 戦争は起こるのか?

 最近、世界中がきな臭い。口には出さなが臭いは隠せない。尖閣諸島を挟んで中国では反日運動が盛んになっている。そういえば、この前、パキスタンの反米デモはどうなったんだっけ?おっと、それより竹島は大丈夫なのか?
 しかも日本はご覧の通り、相変わらず政局に明け暮れてもう領土問題どころではないようだった。やはり日本は平和なのだ。いまのところはね。

 世の中でもっとも紛争に繋がりやすい領土問題。一体なんで今なんだ。今まで誰も気にしていなかったのに。その間に韓国はちゃっかりGoogleMap上にせっせと書き込みしてバーチャル支配を整えていた。だからかもしれないが、次は実効支配の布石を打っている。
 中国は尖閣諸島を実効支配できていないし、GoogleMap上のバーチャル支配もできていないから少し焦っているのかもしれない。武力で制圧してでも自分のものにしたいと思っているだろうし、それはかつて日本がやったことの仕返しということで国民感情に訴えれば、国民の不満も外を向くと思っているのかもしれない。

それにしてもだ。日本の外交力は地に落ちた状態だ。竹島問題では国際司法裁判所に訴えるといいながら、尖閣諸島の問題ではその必要はないという。
尖閣問題で国際司法裁判は不要 玄葉外相が各国に説明へ(産経ニュース)
 ふつうはこれを二枚舌という。英語や中国語でも同様の単語があるに違いない。海外からみれば、日本はいよいよ三等国になりさがっとみるのではないか。強欲な中国がこの隙を見逃すはずがない。前回のブログ記事に記載した通り、中国では誰のものでもないものはただで手に入れるという考えを持っているのだ。尖閣諸島が日本のものか中国のものか、国際的に不確定であれば、何としてでも自分たちのものにしようとするだろう。前回の野田首相の失態に重ねて、これは彼らにとっては格好の材料になるはずだ。「日本政府は一貫性をもっていない。だから日本政府の主張は論ずるに値しない」と。

 最近の動向をみると、中国は最後は武力で尖閣諸島を奪取するシナリオを用意しているのではないか、とさえ思えてくる。国民を動かし漁船を尖閣に集結させそれを鎮圧するために軍隊が動く。戦闘行為ではない、国内の鎮圧のために軍が動いたのだと。そう、それは中国国内での出来事なのだ。なぜなら、尖閣諸島は中国の領土だからだ。と。
 しかし、それで、戦争になるかといえば、すぐには戦争局面とはならないはずだ。そんな暴挙が中国国内でも許されるはずはない。ただし、それは今の中国にいえることで、軍部が中枢部に入り込んでしまえば、そうとも言えなくなると思う。

〓 その先の話

 いずれ世界的に戦時局面に入ることはおそらく避けられないだろう。竹島や尖閣諸島の問題は、その一部に過ぎない。なぜそう言えるのかは、以前書いた記事を参考にしてほしい。

 ここではその先の話である。戦争の在り方が、従来とは違ったものになるだろうという話だ。ここに紹介する本『ロボット兵士の戦争』は、アメリカ軍にどのようにロボット兵器が浸透していったか、そして、それがどのような問題を引き起こしているかを示したレポートだ。単行本で650ページもある。それにもまして、装丁が地味だから硬い本だと思われてあまり売れていないのかもしれない。
 確かにページ数は多いが、書かれている内容を簡単に要約することはできる。とにかくもう戦争自体が以前のような軍人同士の戦いではなくなりつつあるということだ。
 すでに実践に使われているロボットを紹介しよう。一つはUAV(Unmanned Aerial Vehicle)と呼ばれる、無人飛行機である。主に偵察用に使用されていたが、現在では攻撃能力も備えている。操縦はアメリカ西海岸にあるゲームセンターのようなコックピットから行う。
 もう一つは、PackBotと呼ばれるキャタピラで駆動する地雷除去用の遠隔操作ロボットだ。ロボット掃除機ルンバを製造販売しているiRobot社の製品である。福島原発事故で使用され、内部の映像を撮影したときもこのロボットが使われている。そして、PackBotは通常SonyPS2のコントローラを使って操作する。
 最初米軍はこれらのロボット兵器導入に難色を示していたらしい。当時軍の中枢にいた人間が古すぎたのかもしれない。しかし、主な理由はオスプレイなどの旧来からの友人兵器開発に多くの予算を注ぎ込んでいながら、安価なロボット兵器に予算を注ぐのは不都合であったとうことだ。日本でいう「もんじゅ」と同じ状況だったのだろう。サンクコストに縛られていたのである。
 最近では、そのような呪縛からも逃れ、アメリカではロボット兵器の開発に多くの予算がつぎ込まれている。そしてそのアメリカ国防省が注目していたのが日本だ。

136ページ
2004年、DARPAは軍用ロボットの最も望ましい姿に関する研究に資金を提供した。そして「ヒューマノイドを実戦配備すべきである。早ければ早いほどいい」という結論に達した。
 人間の姿はロボットが取りうる形のひとつにすぎない。ロボットの大きさに制限はない。ホンダが一億ドルを超える資金を投じて開発しているロボット、アシモは、人間とほぼ同じくらいの大きさだが、京都大学発のベンチャーが開発したクロイノはわずか35センチだ。

353ページ
 こうしたロボット技術への傾倒から、日本はグローバルパワーの予測において過小評価されてきたという意見さえある。とくに熱心なのが、インド人でビジネスおよびグローバル・リーダーシップの教授、ブラブフ・グプタラだ。「今、21世紀は“アジアの世紀”と予測するのがはやりだ──中国が経済的にも軍事的にも来るべき大国とされている。私はインド人なので、未来についてのこうした理論を支持していなくても意外ではないはずだ。しかし、私がインドについてもほんの少し楽観的なだけで、むしろ日本に投資しているというのは、意外に思われるだろう」
 日本についての見方が変わったのは、2005年の愛知万博に参加してからだと、グプタラは言う。来場者はおよそ2200万人、日本のロボット工学の動向がすべて展示された。「とくに、日本政府の努力にもかかわらず、日本経済が25年以上前から低迷していることことを考えれば、私の選択は意外かも知れない。ではなぜ、私は日本に投資しているのか?……ロボットのせいだ!」。デーブ・ソンタグも同じ意見だ。「日本はロボット工学では最高だ……自国の戦略的可能性にまだ気づいてすらいない」

〓 さらにその先の話、兵器は進化する

 歴史を紐解くと、大きな戦争があるたびに軍事兵器は大きく進化する。この本『ロボット兵士の戦争』で著者はやがてターミネーターのように人間とロボットが戦争を始めるのではないかと危惧するほどだ。この点について議論するつもりはないが、ロボットは決して戦争はしないと私は信じている。なぜなら、戦争は生物としての本能によるもので、人間特有のものだからだ。カーツワイルは「ポストヒューマン」でロボットが新たな種としての炭素生物となりうると予測したが、それがありえないであろうとは、以前記事で述べた
 しかし、ロボット兵器が自動殺人マシンになることは考えられる。実際に韓国でそれは売り出されていたという。

248ページ
 そうした文化による考えかたと影響の違いが、戦争で何を許容できると考えるかの違いにも影響する。無人システムを武装化して人間を撃つ能力を与えるかどうかは、おそらくアメリカのロボット工学界で最も議論を呼ぶ問題だろう。アジアでははるかに異論が少ない。現に、韓国は2004年、ライフルを持ったロボット狙撃兵2体をイラクに送り込んだが、議論はほとんど起きなかった。命中率は「100パーセントに近い」とメディアは報じた。
 さらに注目に値するのは、サムスン製の「自動監視銃」だ。むしろ高品位テレビのメーカーとして知られる同社は、自動小銃を2台のカメラ(赤外線カメラと望遠カメラ)およびパターン認識ソフトのプロセッサーと一体化させた。この銃システムは、動いている標的を1.6キロ先から特定し、分類し、破壊できるだけでなく、ブログメディア『ギズモード』のルイス・ラミレスの話によると、「拡声器も搭載していて、近くを歩いている愚か者に、木っ端みじんにされる前に降伏するよう呼びかける」。韓国は、北朝鮮との250キロにおよぶ非武装地帯(DMZ)で、ロボ機関銃を警備にあたらせる構えだ。
 サムスンがこの新製品用に作ったプロモーションビデオを見れば、考え方の違いはさらに鮮明になる。ロボ機関銃がこの被験者である人間を自動的に追跡し、被験者はあちこち走り回ったり低木の影に隠れたりしてロボット銃をかわそうとするが、うまくいかない。『ターミネーター』シリーズを見慣れた欧米人はとまどってしまうが、韓国のコマーシャルはもう少し軽いノリだ。人間を追いかける現実の自動機関銃の映像と、ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の血湧き肉踊るテーマ曲が組み合わされている。

 しかし、アメリカは引き続きロボット開発を続けていることは明白だ。次の動画と記事によりそのことがわかる。

・ちょっと不気味な米軍の4つ足ロボットの最新動画公開 人間について行く様子も

・米国:今世紀末までに何千機もの無人ロボット航空機(ドローン)により世界の空を監視

 これらの事実からロボットによる戦争は拡大することが予測される。アメリカは合理主義であり、発明は常に何らかの役に立たなければならないのだ。原子爆弾が製造され日本に落とされたのは、戦争を終わらせると同時に原爆がそのために製造されたからだと考えるのがアメリカ流の合理主義である。ならば、ロボット兵器により兵士が死なない戦争を実現するのは、アメリカにとっては当然の帰結だ。アメリカ軍はそのためにロボット兵器を開発しているのだ。ロボット兵器があるから戦争が起きるのではない。もともと戦争の原因は別なところにあり、その時のためにロボット兵器は開発されたのである。事実がどうであれ、それが合理的な解釈というものである。

〓 それで、日本はどうなる?

 日本はロボット開発では先端技術を持っている。特に人型ロボットの分野ではずば抜けている。アメリカはこの技術が喉から手が出るほどほしいのではないか。つまり、ロボット技術のニーズは既にあるのである。なぜ日本政府はこれを世界に売り出そうとしないかが不思議なのだ。不況の時期に経済を再生するのはいつも戦争景気なのである。名目はどうあれ、日本はロボット技術で復興するべきなのだ。そうしないと、いずれは兵器開発などけしからんとか、平和目的でなければロボットを開発してはいけないとか、そんなことを言ってる場合ではなくなるのである。

 これはあまり知られていないことかもしれない。かつて戦時中1926年に八木アンテナは開発された。国内外で特許をとり、それをイギリス軍やアメリカ軍が採用して、レーダーの性能を飛躍的に向上させたのだ。しかし、日本では「敵を前にして電波を出すなど暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然と殆ど注目されず、その存在を知る者も殆どいなかった」という状態だったという。

 日本はロボット技術でも同じ轍を踏もうとしているのではないか。ロボット技術は幅広い。兵器だけではなく多くの分野で応用がきくのである。なぜそこに政府や財界は注目しないのか。日本とは、まったく不思議な国なのである。

戦うコンピュータ2011

最後に、ロボット兵器そのものを知るために日本人の著者が書いた本を紹介する。2005年に同じ題名で書かれた本の全面改定版である。いかにこの分野の進化が早いのかがうかがえる。

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シリーズ戦前昭和(まとめ):戦争は平和のためならず

 政治と経済が混迷する現代。私たちは、混迷の中に近傍の未来を議論するだけで、その先にある未来のはっきりとした方向性を示せないままでいます。年金はどうなるのか。ユーロ体制は続くのか。中国とインドは発展し続けるのか。日本の経済は再び成長へと向かうのか。しかし、今後戦争が起こるかどうかを予測する人はあまりいません。それはあたかも今後世界は戦争局面に進むことをうすうす感じていながら、誰も口に出せないでいるような、そんな雰囲気を持っています。

〓 現在は戦前と似ている

 私はアメリカにおける1930年代、世界恐慌後の出来事を綴った『シンス・イエスタデイ』を読み、衝撃を受けました。それは、その内容がごく最近、2008年のリーマンショックが起きた後の状況にあまりにも似通っていたからです。
 では、同じ時期の日本、つま戦前昭和の日本はどうであったのか。やはり今と同じような状況であったのか。それを確認するために5冊の本を読みました。そして、その内容を「シリーズ戦前昭和」という特集記事を作って五回にわたって紹介してきました。それぞれの記事では、その本の引用を使って現代との類似点を述べてきました。
 ここでは、そのまとめとして、それぞれの本に書いてあった共通点を抜き出して、日本の戦前・戦中は実際どうであったのかを述べたいと思います。

■国家の成長と衰退
 過去の戦争を振り返ってみると、そこに至る道のりにはあるパターンが見られます。「昭和史」で半藤氏が述べた、40年で国を作り、そして次の40年で国を破壊するという説。国を破壊するときに、戦争への道を歩みます。あるいは、ラビ・バトラが述べる、戦士、知識人、資本家がそれぞれ台頭する時代を繰り返し、戦士の時代に戦争が起こるとする説もあります。いずれにせよ、これらの説が述べているのは、歴史は繰り返すということらしい。大きな流れで言うと、発展的に平和へと向かう時期と、衰退的に戦争へと向かう時期が繰り返されると言うことです。
 そして現在は、どう考えても世界的に戦争局面へと向かっているといえます。

■技術革新
 シリーズで取り上げた本ではあまり多く語られていませんでしたが、昭和初期ころ自動車や電車、電話、電気製品、など、技術革新による製品の普及がありました。当時は機械製品が主に普及しました。そして、やがてそれらの技術は兵器に転用され、戦争を拡大します。当時は飛行機と戦車が戦争のあり方を変えました。
 現在は電子機器が普及に及んでいます。やがてこれらの技術はやはり兵器に転用されるでしょう。実際に、ロボット兵器がイラクなどで使われ、少しずつ戦争のあり方を従来とは違うものにしています。

■個人主義と家族
 戦前当時はサラリーマンが出現し、また町工場が拡大し、農村から若者が都市部に集中してきました。このころ東京と横浜には同潤会アパートが建設され、都市部における居住のモデルを提案しています。従来の大家族中心の家からサラリーマンに代表される一世帯あるいは単身者向けの著住空間が提供され、日本は家父長制度に代表される家中心の社会から、個人または一世代が個々に生活する、いわゆる核家族へと移行していったのです。

■格差と貧困
 戦争を誘引した最も大きな現象が格差と貧困の蔓延であったろうと考えられます。この問題は戦前昭和を綴ったどの本にも登場します。そして、そのことが人々を戦争に駆り立てたのではなく、貧困の解決策を誰に求めるべきか、となったときに、軍部が手を挙げたのです。
 一般の殆どの市民は貧困に悩まされたわけですが、戦争に賛成していたわけではありません。しかし、当時の政治家が市民一般の生活に直結するこれらの問題を解決できずにいる間に、軍部が満州へ侵攻し、日本国内の貧困から脱却するために満州国を建国しようとします。この動きが当時の民衆の目にはどう映ったのでしょうか。おそらく、国民の為に領土を拡大し、人々を貧困から救う活動をしているように映ったのではないでしょうか。
 つまり、貧困の問題が政治的に解決できな段階になったとき、武力による解決を民衆は求めるということなのかもしれません。実際に226事件は軍部による(つまり武力による)クーデータでした。それが失敗したものの、結局は軍部は政治家を押さえつけ、国内の政権を奪取します。その一端には政治不信ということもあったと思います。
 はたして現代、自民党も民主党も、そしてメディアも信じられなくなった今現在、そして今後何を信じるかで、戦前昭和と同じことを繰り返すのか、はたまた違う道を歩むのかを問われることになります。

■天変地異
 昭和に起きた天変地異といえば、関東大震災です。関東大震災があったのは1923年、そしてその10年後の1933年には、昭和三陸大地震が起きています。関東大震災の様子は、吉村昭が小説『関東大震災』に書いています。その後、昭和東北大飢饉により、農家は大きな打撃を受けます。この冷害の発生で特に被害が大きかったのが1933年と1935年でした。
 とにかく昭和恐慌のころに天変地異が多く発生し、日本の経済と農家は大きな打撃を受けたのです。そして、現在はというとは日本大震災が2011年3月にあり、従来の記憶からはその前後10年に、連動して関東で大きな地震があることが予想されます。この歴史をなぞれば、今後は、はたして冷害なども発生するかもしれません。

■メディアと政治の退廃
 戦時中は贅沢は敵でした。だから、人々の行動は引き締まった統制の取れたものにならざるを得なかったのです。しかし、それ以前の昭和前期では、現代社会と同じように道徳的退廃というか、アメリカ的な消費社会へと転落していたのです。
 それは、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」という流行語に表れています。都市にはカフェーと呼ばれる、今でいうキャバクラが多く出店していました。小林多喜二の「蟹工船」はこの時代の小説でした。格差が広がったことで暮らしは質素になり、人々の政治的関心は薄れ、ゆえに娯楽を求めていた時代でもありました。
 人々の政治への期待はその内容以上にパフォーマンスにより判断され、近衛内閣が誕生します。近衛内閣はヒトラーにあこがれていたといいます。この段階で、もう日本は軍国主義への片道切符を手にしたのでしょうか。

〓 再び戦争は起こるのか

 これまでで示したとおり、その事象をみれば現代は戦争局面へと向かっています。そのことは、シリーズ戦前昭和の最後に取り上げた「昭和史」で、半藤氏が暗に示しています。しかし、この現在の時世がメディアで取り上げれることはありません。おそらく、今後世界が戦争へと向かうかもしれないことについては、このままタブーとして表面には現れてこないでしょう。
 そして、戦前昭和が戦前であったことは後からわかったことであって、当時の日本では日本が世界戦争に参戦するなどということは、殆どの民衆は予想だにしなかったとされています。さらに皮肉なことに、世界中がもっとも平和であった時期に一時大きなムーブメントとなった反戦運動は、すっかりなりを潜めてしまいました。
 私たちは、もしかすると戦争というものが人類発展のための通過儀礼であることを、すでに血肉にしみこませているのかもしれません。「平和」という言葉が存在するのは、そのことを意味しているようにも思えます。そして、不思議なことに、人類にとって「平和」が望まれるのは、決まって戦時下であり、戦争の目的は世に恒久平和をもたらさんがためなのです。

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戦争のリアル 『生きている兵隊』 石川達三著

生きている兵隊 (中公文庫)

 南京大虐殺が起きたとされる1937年に、その頃まだ若干二十代であった石川達三が書いた問題小説です。実際、この小説は軍部によって何度も校正が入った挙げ句、さらに伏せ字もほどこされたうえで、最終的には発禁処分になっている。理由は、安寧秩序を取り乱す内容だからということらしいのです。石川達三はこれにより執行猶予四年の刑罰を食らっています。
 当時は日本は軍国主国にそまり、文筆家を戦場に赴かせて軍部の宣伝のために利用していた時代です。軍部が文筆家に期待するのは、勇猛果敢な兵士たちの姿と、統制の取れた部隊、そして戦地民間人との融和を書いた文章だったのでしょう。ところが石川達三は、あろうことか戦場のそのままをリアルに書きたてた。石川達三がやろうとしたことは、以下のサイトに掲載されています。

石川達三『生きている兵隊』序文

 現在出版されている『生きている兵隊』のあとがきには、半藤一利氏が以下のように書いています。
「その回想によれば、『くわしく事実を取材し、それをもとにして、たとえば殺人の場面などには、正当な理由を書きくわえるようにした』というし、また検閲を考慮して『作中の事件や場所は、みな正確である』というのである。軍はこれを読み、むしろ猛反省すべきときであったのに、それどころか臭いものに蓋の無謀を敢えてしたのである。なぜなら、忌まわしき南京事件が背景にあったればこそ、『生きている兵隊』を抹殺しなければならなかったから。」

〓 真実の戦場がそこにある

 石川達三は、兵士たちが戦場で残虐にならざるを得ない場面を多く綴っています。戦士をたたえたり、「鬼の目にも涙」といった美談ではなく、おどろおどろしい解剖図鑑のような、それが真実であるにもかかわらず目を背けたくなるような現実をさらけ出しているのです。

 最近、つまり2012年3月に名古屋の河村市長が「南京虐殺はなかったのではないか」と述べたとされています。どこでどう変わったのか、その後、河村氏が述べたのは「南京で30万人が虐殺されたというのはありえない」という発言でした。それがなぜか、ネット上では虐殺そのものがなかったという話になっている。なぜこのような話になるのかが不思議でたまりません。実は、虐殺された人数が30万人にはならない、もっと少ないはずだというのは日本での定説です。それが、あるか無いかの極端な二元論になってしまうのですね。日本人特有の議論の仕方だと思います。

 「生きている兵隊」では、日本軍が中国を侵攻する戦場で、中国兵士が民間人になりすますシーンが何度か登場します。攻め込んだ民家の傍らに中国兵士の軍服が脱ぎ捨てられている。そんな中では民間人と兵士の区別がつかなくなる。そのため上官からはたとえ民間人の姿をしていても疑わしき場合は殺してよい、とのお達しがあるのです。また、日本軍では略奪や強姦が公然と許される風紀があったことを、石川達三は明確に書いています。
 結果的には、日本軍兵士は無差別に中国人を処刑しなければならなかった。そうしなければ自分たちの命が危なかったわけです。この意味では、明らかにドイツが行った虐殺とは異なります。明確に虐殺を指示したものはいなかったのです。しかし、結果としては虐殺に至った。どちらにしろ、日本軍が強姦や略奪、民間人の殺害が行われたのは事実であり、問題はその過多にあるのです。

 はたして南京虐殺があったのかなかったのか、その答えがこの小説の中に隠れいています。

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シリーズ戦前昭和(その5) 『昭和史』 半藤一利著

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

 前回紹介した『それでも、日本人は戦争をえらんだ』は、高校生への講義の内容を書籍化したものでした。今回紹介する『昭和史』も、口語体で書かれています。そもそもこの本自体はCD音声版もあり、口述が最初に存在しています。
 それにしても、著者である半藤氏は、良くこれだけのことを記憶にとどめているものだと感心します。全部が真実ではないにしても、作家としての活動の中で一次情報を得る機会も多かったたのではないでしょうか。また、半藤氏は司馬遼太郎とも親交があったため、資料から得た情報のやり取りもあったのかもしれません。
 これまで紹介してきた中では、この本が一番面白く読めます。私のように、もともと歴史は苦手だけと……、という人に特にお奨めできる本です。

政治***
軍事**
経済*
社会***
文化**
生活**

この本に対する他の書評ブログ記事のリンクを掲載します(記事著者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます)。

Chikirinの日記:2011年5月1日の記事

ヒストリーチャネル:

弁理士の日々:2012年2月14日の記事

晴耕雨読:2009年7月12日の記事

青いblog:2011年2月8日の記事

天才とバカの間:2007年6月19日の記事

少し長いのですが、以降は引用とその引用部分に関する感想を述べます。タイトルを見て木になったところだけでも読んでいたただければと思います。

〓 栄枯盛衰80年説

■14ページ
 さてここから大正、昭和になるのですが、自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人はたいへんいい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の祖父が一所懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和20年(1945)8月15日の敗戦というわけです。
 1965年から国づくりをはじめて1905年に完成した、その国を40年後の1945年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに40年、国を滅ぼすのに40年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。
 もうひとついえば、敗戦国日本がアメリカに占領されて、植民地ではないのですが、なんでもアメリカの言いなりになる苦労の7年間を過ごし、講和条約の調印を経て新しい戦後の国づくりをはじめた、これは西暦で言いますと1952年のことです。
 さらにさまざまなことを経てともかく戦後日本を復興させ、世界で一番か二番といわれる経済大国になったはずなんですが、これまたいい気になって泡のような繁栄がはじけ飛び「なんだこれは」と思ったのがちょうど40年後、同時に昭和が終わって平成になりました。
 こうやって国づくりをみてくると、つくったのも40年、滅ぼしたの40年、再び一所懸命つくりなおして40年、そしたまたそれを滅ぼす方向へ向かってすでに十何年過ぎたのかな、という感じがしないわけではありません。いずれにしろ、私がこれから話そうという昭和前半の時代は、その滅びの40年の真っただなかに入るわけです。

◆堀井憲一郎が『若者殺しの時代』で似たようなことを述べていました。堀井氏はシステムが壊れると言っていましたが、この本ではもっと積極的にシステムを破壊すると言っています。どちらも同じこと。でも半藤さんはその時代を生きてきた結果を述べている訳ですから信憑性があります。

〓 昭和天皇が激怒した226事件

■171ページ 226事件の話
 ここまでくると、将校たちも「部下をすべて原隊に復帰させて、自分たちはここで腹を斬ろう」と意見がまとまりかけました。そこで何とか天皇陛下にその旨を申し上げて御使いを頂き、川島義之陸相や山下奉文少将ら皇道派の陸軍中央の人たちが相談し、これを本庄侍従武官長に伝えました。本庄さんは気が進まないながら奏上したところ、天皇はかつてない怒りを顔に表して言ったといいます。
「自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごとき者どもに勅使などもってのほかのことである」

◆昭和天皇もそうとう頭に来たみたいですね。でもこれは当たり前だと思います。クーデターを起こしたわけですから。お国のためにとか、陛下のためにといったってだめだと思います。勘違いも甚だしいと、陛下は思ったのではないでしょうか。
 こういった、歴史の教科書や一般の歴史本には書いていないことが、この本にはたくさん書いてあります。そこが、これまでに紹介してきた本とは違うところです。

〓 城山三郎さんのこと

■174ページ
城山三郎が小説『落日燃ゆ』で非常に持ち上げたためたいへん立派な人と広田さんは思われているのですが、二・二六事件後の新しい体制を整えるという一番大事なところで広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。スタートから、「政治が悪いから事件が起きた。政治を改革せよ」という軍部の要求を受け入れて、「従来の秕政を一新」という方針に同調して組閣しました。秕政とは悪い政治という意味です。これでは軍部独走の道を開くことと同じなんですね。

◆以前「落日燃ゆ」を読んで感動したのですが、しかしこの事実を知って愕然。城山さんの書く小説は、よく考えたら思いっきり美談が多いです。「官僚たちの夏」なんかもそうでした。あるいは、現実には醜い部分があることを前提で、美しいものだけを残そうとしたのかもれません。いずれにしても城山三郎は、小説に対しては司馬遼太郎や半藤一利とは相容れないポリシーを持っているのだと思います。

〓 国民にとって戦争はバーチャルに映っていた

■199ページ
 昭和13年1月、作家の石川達三が中央公論から南京に特派されて行っています。前年12月に起きた南京事件そのものは終わっているのですが、それでも相当数の虐殺が行われているのを彼は目撃しています。それを小説『生きている兵隊』として発表すると、直ちに発禁となり、執行猶予付きですが懲役刑を言い渡されました。それを読んでも、南京で日本軍がかなりひどいことをやっていることはわかります。

◆この小説は、今まさに読んでいる最中です。冒頭に、以下のような記述があります。
「(前期)日支事変については軍略その他の未だ発表を許されていないものが多くある。従ってこの稿は実践の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである。部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい。」
 それでも、石川達三をこの小説を書かせた動機に従えば、そこに書いてある事象自体は実際にあったことなのでしょう。半藤氏によるこの本のあとがきには、次のように書いています。
「その回想によれば、『くわしく事実を取材し、それをもとにして、たとえば殺人の場面などには、正当な理由を書きくわえるようにした』というし、また検閲を考慮して『作中の事件や場所は、みな正確である』というのである。軍はこれを読み、むしろ猛反省すべきときであったのに、それどころか臭いものに蓋の無謀を敢えてしたのである。なぜなら、忌まわしき南京事件が背景にあったればこそ、『生きている兵隊』を抹殺しなければならなかったから。」

〓 勝つか負けるかにこだわり、目的を見失った

■208ページ
 日本の民衆の中には泥沼の戦争への不満、先行きに対する政府への批判が徐々に出はじめるのです。政府も軍も困って昭和15年始め、気を引き締めるために「日本の戦争目的」をうたい上げます。
 「今事変の理想が、わが国肇国(ちょうこく)の精神たる八紘一宇(はっこういちう)の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり。その究極において、世界人類の幸福を目的とし、当面において東洋平和の恒久的確立を目標としていることは、政府のしばしばの声明をまつまでもなく、けだし自明のことである」
 これは現在65歳以上の人ならば懐かしく思われる言葉がたくさん出てきます。肇国の精神、八紘一宇、王道楽土、そういえば「東洋の平和のためならば、なんで命が惜しかろう」という歌もあったと……。それほど、日本の国自体も戦争目的があいまいになり、国民の気持ちにはいつまで戦争が続くのかという不安が大きくなっていたのです。

◆日本国民の多くは、内心「ああ、戦争か」といった気持ちだったのではないでしょうか。

〓 軍部と政府の権力闘争

■225ページ
 このような笑いたくなるような事件を含みながら、政友会も民政党も懸命に、なんとか少しでも法案に制限を加えようと頑張っていたのですが、なんと左翼がこの法案に大賛成でした。当時、唯一の革新政党ともいえる社会大衆党は、何度も賛成論をぶったのです。現代から眺めれば、左翼勢力は階級闘争を通じて資本主義を改革ないし打倒しようと考えているわけですから、こうやって国家社会主義的な議論を押し立ててゆけば資本主義打倒も可能なのではないかという思惑があったためでしょう。矛盾したややこしい理屈ですが、つまりはそれが革新に通じるとでも錯覚したのでしょうね。

◆資本主義に対抗する社会主義が軍部と互いに手を結んだことで、逆に政府の力を弱めてしまった。この背景には、資本主義が警察権力と組んで、共産主義者を弾圧した意趣返しとしての政策だったのかもしれません。結局のところ、政局、つまり権力闘争に翻弄した結果なのでしょうか。

〓 政府と政治家の衰退

■226ページ
 3月16日、この国家総動員法案が成立する当日ですが、社会大衆党雄弁家をもってなる西尾末広義士が登壇して大演説をしました。ちょっと面白いので引用します。
「……さる3月14日は、五箇条の御誓文の70年目にあたるのであります。『わが国未曾有の変革をなさんとし』と御誓文の冒頭に仰せられているのであります。まことにしかり、今日においても、わが国は未曾有の変革をなさんとしている。御誓文のなかには『旧来の陋習を破り、天地の公道にもとづくべし』こういうご趣旨もうたわれているのでありまして、この精神を近衛首相はしっかりと把握いたされまして、もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろうと思うのであります。今日わが国のもとめているのは、確信にみちた政治の指導者であります」
 とこうやったんですねえ。「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく」辺りまではまだいいものの──もちろん日本は独裁政権ではありませんからヒトラーだってとんでもないのですが──最後に「スターリンのごとく」ときた瞬間、議場はひっくり返ってしまいました。怒った民政党と政友会からは「一体何を考えているのか」とガンガン野次が飛ぶのですが、西尾さんは屁でもありません。

◆ここに登場する西尾議員は、ファシズムに対する共鳴を示した上に、さらにスターリンを同列に持ってきたのです。この後、西尾議員は除名処分を受けるわけですが、当然といえば当然かも知れません。それにしても、この辺りは当時の政治レベルの低さを象徴する出来事なのかもしれません。

〓 結局日本人は歴史に学ばなかった

■239ページ
 「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」
 何たることか、ノモンハンの時にすでにわかってたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけ多くの人をホロンバイルの草原で犠牲にしながら何も学びませんでした。昭和史の流れの中で、ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という負けるに決まっている、と後世のわれわれが批判するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。いや、今も学ぼうとしていない。

ノモンハン事件は1937年にソ連軍、モンゴル軍と対峙し敗北した戦争です。当時、兵站のまずさや装備の劣勢が問題にあがりながら、そのものを改善せずに精神論に陥ったといいます。それにしても、半藤氏の「今も学ぼうとしていない」という見解は確かにそうなのかもしれません。最近思うのは、日本人は論理的な検証が苦手なのではないかということです。会社でも政治でも、結果のみを述べて、その結論に至ったプロセスは全く見えてきません。東電の値上げしかり、消費税の増税しかり、オスプレイの配備しかり、改正著作権法しかりです。

〓 外の世界が見えていなかった日本

■267ページ
 それにしても、政府や軍部の「見れども見えず」は情けないかぎりです。が、こうやって昭和史を見ていくと、万事に情けなくなるばかりなんですね。どうも昭和の日本人は、とくに、十年代の日本人は、世界そして日本の動きがシカと見えていなかったのじゃないか。そう思わざるをえない。つまり時代の渦中にいる人間というものは、全く時代の実像を理解できないのではないか、とう嘆きでもあるのです。とくに一市民としては、疾風怒濤の時代にあっては、現実に適応して一所懸命に生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもいなかった。
 これは何もあの時代に限らないのかもしれません。今だってそうなんじゃないか。なるほど、新聞やテレビや雑誌など、豊富すぎる情報で、われわれは日本の現在をきちんと把握している、国家が今や猛烈な力とスピードによって変わろうとしていることをリアルタイムで実感している、とそう思っている。でも、それはそうと思い込んでいるだけで、実は何もわかっていない、何も見えていないのではないですか。時代の裏側には、何かもっと恐ろしげな大きなものが動いている、が、今は「見れども見えず」で、あと数十年もしたら、それがはっきりする。歴史とはそういう不気味さを秘めていると、私には考えられてならないんです。ですから、歴史を学んで歴史を見る眼を磨け、というわけなんですな。いや、これは駄弁に過ぎたようであります。

◆日本はかつて、鎖国によって外の世界を全く見ないようにしていた国です。日本人の集団主義がやはり影響しているのでしょうか。昔から集団の中での遇し方に力を注いで、外の世界との交流が少なかった。元来日本国民の性格は、内向的なのでしょうか。
 そして、この国民性だけは反省などで変えられるものではない。今、尖閣諸島問題で中国との軋轢がありますが、戦前昭和の日本と中国の関係と、現在のそれとでは明らかに違うのに、全く同じような対応をしている。これが領土問題に発展したときに、日本の外務省はどう対応するつもりなのでしょうか。相変わらず外との関係をしっかりと把握していないように思えてなりません。
半藤氏がここに引用した文章で述べようとしているのは、日本がかつて戦争へと向かった道程を今に照らして、現在が当時と同じような状況にあることを示しているのです。

〓 第二次世界大戦の始まり

■270ページ
 その山本五十六は8月31日午後1時、特急かもめ号で東京を出発しました。ベルリン時間では31日午前5時です。列車が大阪に近づきつつある頃、ヒトラー総統は第一号命令書にサインしました。
 「ドイツ東部国境における耐えがたい状況を、平和裏に解決するいっさいの政治的可能性がなくなったので、私は力による解決を決意した。ポーランド進撃は決められた計画に従って行われる。……攻撃開始日1939年9月1日、攻撃開始時間4時45分……」
 これに基づき、9月1日未明、フォン・ボック、フォン・ルントシュテット両元帥指揮の150万のドイツ軍部隊が一斉にポーランド国境を越えて進撃を開始しました。第二次世界大戦がこの瞬間に始まったのです。

◆ついに、第二次世界大戦が勃発しました。

〓 政治家の最後の抵抗

■275ページ 1939年
 「支那事変が始まってからすでに二年半になるが、10万の英霊を出しても解決していない。どう戦争解決するのか処理案を示せ」
 陸軍は「聖戦の目的を批判した」と起こって逆に斎藤議員を追い詰めましたが、斎藤議員が、
 「私は議員を辞任しない、文句があるなら除名せよ」
 と啖呵をきると、陸軍は本当に斎藤議員を除名してしまいました。その横暴さはそれほどにひどくなっていたのです。これが議会の「最後の抵抗」だったのではないでしょうか。つまり、政党が有効性を失った、象徴的な出来事だったと思います。

◆第二次世界大戦が始まるとほぼ同時に、日本は軍国主義への道を歩みだした。

〓 ドイツが勝ったから日本も勝つ?

■285ページ
 ところがドイツの連戦連勝を知ると、「日本だって」と、軍人というのは強気なるようです。アメリカがビンソン案(第一次~第三次海軍拡張計画)のもと太平洋・大西洋の両洋艦隊用の軍艦をどんどんつくって急速に軍備拡張しており、いずれは日米艦隊比率は問題にならないほどアメリカ優位となる、それはなんとかして避けたい、と頭を悩ませている折に、アメリカが昭和15年1月に日米通商航海条約を完全破棄したばかりでなく、ルーズベルト大統領は、石油や屑鉄などの日本への輸出を政府の許可制にしました。これは日本海軍には衝撃でした。いくら軍艦があっても燃料がなければ動かすこともできない、ならば万一に備えて鉄や石油などがとれる東南アジアのジャワ、スマトラ、ボルネオといった資源地帯に進出して資源を確保する必要がある、それにはどうしても仏印(フランス領インドシナ三国、とくに現在のベトナム)まで兵力を進出させておく必要がある、いざとなればそこを基地にしてアメリカの根拠地フィリピンを叩かねばならないからです、しかし南進をあらわにするとアメリカは怒って日本への輸出を全面禁止とするだろう、ならばいっそう開戦に備えて油田獲得ためのオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するほかない、となると、これはもう対米戦争は必死……という堂々めぐりの結果、現在のベトナムへの進出の必要性が出てきたのです。

◆これが不思議なところです。当時は日米は条約を結んでいてその限りでは日本が米国から攻め込まれることはなかった。しかし、日独伊が同盟を結ぶことでアメリカが敵になります。そうすると攻め込まれる前に先制攻撃を仕掛けなければならない。そのためには軍備増強が必要。でも石油がなければ兵器は動かない。そこで石油を調達するために南進をする。結局戦争のための戦争をやっていたわけです。それにしても、ドイツが勝ったから日本も強気なるというのはいかにも子どもっぽい話です。

〓 どんな時代にも私服を肥やすやつがいる

■290ページ
そして宇垣さんの日記『戦藻録』を眼を大きくあけてよく見ると、
 「条約締結の裏面の目的は、海軍としては、いや自分の願うた点は達したのである」
 と書いています。これはどういうことか。「裏面の目的」とは何なのか。海軍の戦備をみれば、莫大な予算を使って大和や武蔵などの超大戦艦をつくっている。それはアメリカと戦争をするためではないのかと陸軍からつつかれます。なのに、いざというときに戦争はできない、なんて口が裂けても言えないではないか。言ったら予算がパアいになる。これはたまりません。宇垣さんはむずむずしながらも、三国同盟を結べば、結果として予算をより多く獲得する条件を陸軍につきつけて約束させることができる、裏取引をやれると考えた。つまり、軍備予算の獲得が条約締結の裏面の目的だったわけです。情けないことに、金のために身を売ったんです。いや、魂を売った──そう言うと酷ですが、それに近いのではないですか。

◆宇垣さんとうのは、今で言う原発推進派の土建屋のようなものではないか。結局戦時にあっても利益誘導をする人間は現れる。それでいて一般国民には、滅私奉公せよ、お国のために命を賭けよという。これでは戦死した国民は浮かばれません。

〓 まるで学生のノリではないか

■314ページ
じつは、これはみな薩摩か長州出身の気心が知れた連中で、しかもヒトラー大好きのドイツ賛美者でした。石川大佐はいったといいます。
 「ナチスはほんのひと握りの同士の結束で発足したんだ。われわれだって志を同じくし、団結しさえすれば、天下何事かならざらんや」
 すると藤井中佐は、昂然としてこう言うのを常としました。
 「金と人(予算と人事)をもっておれば、このさき何でもできる。予算をにぎる軍務局が方針を決めて押し込めば、人事局がやってくれる。自分がこうしようとするとき、政策に適した同士を必要なポストにつけられる」
 また、かつて井上成美中将に「三国同盟の元凶だ」と叱責された柴中佐は言いました。
 「理屈や理性じゃないよ。ことを決するのは力だよ、力だけが世界を動かす」
 というわけで、昭和15年春、海軍中央は対米強硬路線でぐんぐん走り出してゆきます。

◆理屈や理性じゃなく力だとおっしゃる。まるでダースベーダーがダークフォースを信仰するようなものです。このような人物が国の中枢にいたのでは、その国が滅びるのは当たり前です。

〓 もう遅い、ハルノートはふっとんだ

■352ページ
 「物がなくなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早いほうがよいと思います」
 つまり石油の輸入禁止で日本はどんどん貧しくなる、どうせうまくいかないのなら、早く戦争をしたほうがいいのではないかというわけです。天皇陛下は驚いて聞きました。
 「戦争となった場合、(日露戦争の時の)日本海海戦のような大勝は困難だろう」
 永野はしゃあしゃあとして答えます。
 「日本海海戦のごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつきません」
 海軍の全作戦を統轄する人がこう言うのです。要するに、繰り返しますが、日本は戦争するには資源調達のため南部仏印に進駐しないとだめなんですね、しかしそうすればアメリカとイギリスがカンカンに怒って戦闘行為で報いてくるのはわかっているわけです。それでも、もしかしたらそうならないんじゃないかという楽観のもとに、こういう決定をしたということなんです。これで戦争への道から障害は突き破られました。例の石川信吾大佐はこう言いました、「石油を止められれば戦争だよ」と。日米諒解案なんて吹っ飛ぶと同時に、野村とハルの地道な交渉もこの瞬間に吹っ飛び、日米交渉もしばらくは中止ということになりました。

◆つくづく、かえすがえすおろかな戦争であったというのは明確です。負けると判っていてけんかするというならまだしも、この場合は戦争ですから、無謀というほかありません。

〓 おろかな戦争を始めないための三つの教訓

■503ページ
 よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史はたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。
(中略)
では昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます。
 第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました。結果的には海軍大将米内光政が言ったように“魔性の歴史”であった、そういうふうになってしまった。それはわれわれ日本人が熱狂したからだと思います。

■504ページ
 二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な概念論を好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込みになるのです。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境線に兵力を集中し、さらにシベリア鉄道を使ってどんどん兵力を送り込んできていることはわかったはずです。なのに、攻めてこられると困るから来ないのだ、と自分の望ましいほうに考えをもっていって動くのです。

■506ページ
 三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があると思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力を持ち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、まさにその小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います。
(中略)
 さらに五番目として、何かことが起こったときに、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。

◆一つは集団主義的扇情、二番目は論理的検討力不足、三番面は固陋と無謬性。五番目の短絡的発想というのは二番目の論理的検討力不足と同義だと思います。

 この本は最近日本で嫌われている自虐史観なるものを彷彿とします。しかし、まさに半藤氏がこの本で指摘したのは、自らの問題点を省みず避けるようにして、むしろ根拠のない自信と熱狂へと走る国民性でした。そして、歴史に学ぶことが重要であるとしています。しかし、実際には当時と全てが同じ状況ではないし、今後仮に世界的に戦時下に突入するにしても、全く違う形態となることが予想されます。つまり、大筋は同じような流れになるが、表面的には私たちはそれを戦争と認識できない可能性もあるのです。

 私たちは過去の歴史に学ぶと同時に、程度や形態の違う戦争への突入を予測する必要があると思います。私はこれまで、戦前昭和の歴史を、5冊の本で紐解いてきました。その中で現代と共通するのは、世界的恐慌と格差の拡大、新興国の台頭と技術的転換、グローバリズムとブロック化、などです。これらの共通点に対し、異なる側面として、当時よりも圧倒的に進化した機械文明と、それによる完全な個の接続があります。そして、新たな戦争は兵器がより高度となり、ロボット兵器がその主役をなすだろうといわれています。

 これまで、五冊の書籍を資料として読み、そのために記事は引用とその引用箇所に対するコメントという形で記事にしてきました。今後の記事では、格差や貧困と戦争との関係を明らかにし、そして、ロボット兵器による新たな戦争がどのように起こるかを、いくつかの書籍を参考にしながら考察していきたいと考えています。

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シリーズ戦前昭和(その4) 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子著

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

 第4回目に紹介する本は、いままで紹介してきた論文形式の本とは違い、高校生への講義を文章に起こしたものです。ですから、非常に読みやすい。
 講義は歴史的にわかっている事実を示し、なぜ当時の人物がそう判断したのか、あるいはそのような行動を起こさなければならなかったかを、生徒に問いかけながら進んでいきます。要するに、記憶する講義ではなく、考えるためのディスカッション形式の講義で進んでいきます。生徒の回答とその回答に対する加藤氏の受け答えがいくつかの場面で登場し、会場の臨場感がそのまま伝わってきます。
 内容については、軍事的な事柄が中心となります。それと国内の政治的背景、関連する世界情勢を引き合いに出しながら、その関係性を示しています。

政治**
軍事***
経済**
社会**
文化*
生活*

この本に対する他の書評ブログ記事のリンクを掲載します(記事著者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます)。

404 Blog Not Found:2009年8月15日の記事

紙屋研究所:2009年11月23日の記事

H-Yamaguchi.net:2011年1月4日の記事

さてと、今までどおりこの後は引用とその引用部分に対する感想を述べます。

 

〓 政治的無策を軍隊が見逃さず、そして戦争へ突入

■286ページ
 このずれを一挙に突破して、国民の不満に最後に火をつける役割を果たしたのが、1929年10月、ニューヨークの株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌でしょう。農林省の農家経済調査によれば、農家の年平均所得は、29年に1326円あったものが、31年には、なんと650円へと半分以下に減ってしまっていました。
 この時期は世界的な恐慌でしたから、日本が協調外交方針をとっていたために、農家所得が減ったというわけではないのです。しかし、たとえば31年7月、松岡洋右が政友会本部で演説し、当時の若槻礼次郎内閣下の幣原外交を批判していたように、今日の外交は国際的な事務的な交渉はやっているが、「国民の生活すなわち経済問題を基調とし、我が国民の生きんとするゆえんの大方針を立て、これを遂行する」ことが第一であるのに、それをやっていないではないか、との批判は、生活苦に陥った国民には、よく受け入れられたと思います。そのような瞬間を軍が見逃すはずがないですね。こうして、31年9月18日、着火点に火がつけられることになりました。

◆「着火点に火がつけられる」とは、満州事変の始まりのことを言っています。満州事変の発端は、関東軍の暴走によるものであるというのが一般論になっていますが、加藤氏の講義によると、きわめて冷静な対応のようにもみえます。
 なぜ軍の暴走を政府が止めることができなかったか、そのあたりがよくわかる説明になっています。つまり、満州国を立てる大義名分が国民生活を守るためであるという、外交上の解決策として説明しやすくなったのではないでしょうか。

〓 太平洋戦争は計画的であるが無謀という矛盾を孕んでいた

■366ページ
 この点を考えるには、軍部が、三七年七月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実能を見なければなりません。同年九月、近衛内閣は帝国議会に、特別会計で「臨時軍事費」を計上します。特別会計というのは、戦争が始まりました、と政府が認定してから(これを開戦といいます)戦争が終わるまで(これは普通、講和条約の締結日で区切ります)を一会計年度とする会計制度です。
 三七年に始まった日中戦争からの特別会計が帝国議会で報告されるのは、なんとなんと四五年十一月でした。太平洋戦争が終結した後、ようやく日中戦争から太平洋戦までの特別会計の決算が報告されるという異常な事態です。軍部とすれば、日清戦争や日露戦争の頃と違って、政党の反対などを考えなくて済みますから、こんないい制度はないですね。日中戦争を始めて、蒋介石相手に全力で戦うこともしていたけれども、裏で、太平洋戦争向けの軍需への対応を準備できるようにしておく。
 一橋大学の吉田裕先生の研究によれば、1940年の1年分を例にとってどれだけが日中戦争に使われ、どれだけが太平洋戦争への準備として使われたかといえば、なんと三割しか日中戦争に使われていない。残りの七割は、海軍は英米との戦いのために、陸軍はソ連との戦争を準備するために使っている。太平洋戦争が実際に41年末に始まるまで、すでに使われていた臨時軍事費の総額は256億でした。現在の貨幣価値に換算するには、800倍すればよいといわれていますから、換算してみると、20兆4800億円ですか。
 当時、軍の内部にいた人間も、これはおかしいなと気づいていたようです。海軍省の調査課というところで、海軍の帝国議会対策にあたっていた高木惣吉という軍人の日記には、37年8月3日の記事として「我々部内の者も何のためにそれほどの経費を要するや、主義として諒解し得ざる点あり」と書かれています。つまり日本側は、表向きは日中戦争ですよ、といいながら、太平洋戦争に向けて、必死に軍需品を貯めていたことになる。よって、戦いの最初の場面で、いまだ準備の整っていないアメリカと不意打ちにして勝利をおさめれば、そのまま勝てるかもしれないとの考えが浮かぶ。

◆当時の軍部も、ある程度将来を見据えていたという話がここで登場します。問題の一つは、それが正しい判断ではなかった可能性があるということ。そしてもう一つは、もし仮にその判断が間違っていた場合の責任逃れをするために、隠しながら計画を進めることができたということではないでしょうか。
 こういった、軍事費の取り回しについてはあまり他の本では取り上げられていないかもしれません。少なくともこれまでに読んだ本の中では登場しませんでした。

〓 短絡的な議論の進め方だった

■382ページ
 この水野の論は、徹底しているという点で中国の胡適の論に相当するかもしれません。中国の国土の何割か、海岸の大部分が封鎖されて初めて、米ソを戦争に巻き込めるとの胡適の議論と似ている。水野の議論も、日本は戦争をする資格がない、こうくるわけです。しかし、水野の議論は弾圧されます。また国民もこのような議論を真剣に受け止めない。すぐに別のところへ議論が飛んでしまうのです。つまり、持久戦はできない、ならば地政学的にソ連を挟撃しようか、あるいはいかに先制攻撃を行うか、といった二者択一となってしまう。

◆これは今の日本の消費増税の議論に似ていると思います。消費税を導入するのかしないのかという二者択一となっています。本来は、まず最初に、増税が本当に必要かどうかを議論すべきところなのでしょう。増税以外の方策はないのか。そもそも増税による財源を何に使うのか、そのためにいくら必要なのかも議論しないまま、なけなし的に突き進むのは、あの頃と変わらないのかもしれません。

〓 戦争の最後の1年半で90%が戦死した

■383ページ
 先ほど名前を挙げた吉田裕先生の『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)という本に、とても興味ぶかい表が掲げられています。岩手県一県分の陸海軍の戦死者の推移です(…中略…)。太平洋戦争開戦から45年の敗戦まで、岩手県全体で3万724人が亡くなっている。そのうち、44年以降の戦死者が全体の87.6%を占めているんですね。戦争の最後の1年半で戦死者の9割が発生している。
 これはどうしてかといいますと、アメリカと日本の戦争は、44年6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦で、もう絶体に決着がついてしまっていたのです。マリアナ諸島というのは、第一次世界大戦後、旧ドイツ領だったものを日本が委任統治領として統治してきた島々で、サイパン島、グアム島などが含まれている地域ですね。この海戦で日米の空母の機動部隊同士が戦い、日本側は決定的に負ける。ここで日本側は空母、航空機の大半を失います。

◆つまり、最後の最後は「日本兵が死を恐れないことを敵国が知ることになれば、彼らは恐れをなして和平交渉に歩み寄るだろう」などと、バカな考えを軍部上層部が持ったために、こうなった。結局当時の兵隊さんは捨て駒にされたということでしょう。この本には出てきませんが、当時の神風といった考えや、人間魚雷や「桜花」といった特攻兵器の開発が1944年ごろに行われたことを考えると、当然の帰結といえるかもしれません。何しろ部下に向かって「生きて帰って来い」と言えない状態だったわけですから、戦闘に向かうということは確実に死ぬということだったんですね。下手に生きて帰ってくると白い目で見られる。軍の上層部はのうのうと生きているのに、誰もそのことをおかしなことだと指摘できない状態だった。でも、そういう状況を想像できてしまう自分が怖くもあります。

〓 終戦間際は過去の加害者行為を忘れるほど悲惨な状況だった

■389ページ
 日本人はドイツ人にくらべて、第二次世界大戦に対する反省が少ない、とはよくいわれることです。真珠湾攻撃などの奇襲によって、日曜日の朝、まだ寝床にいたアメリカの若者を3千人規模で殺したことになるのですから、これ一つとっても大変な加害であることは明白です。
(…中略…)
 しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受身のかたちで語られることはなぜ多いのか。つまり「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択してきたのには、それなりの理由があるはずだと私は思います。44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そして9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。

◆要するにあまりにいっぺんに戦死者が出たのと、遠方からの出撃だったために確認ができなかったんですね。さらにこの頃の殆どの出撃は一方通行で、戦況報告が殆どなかった。みんなむざむざと終戦間際に死んでいったために、それ以前に他国に攻め込んだことなど国民の印象に残らなかったのでしょう。喉元過ぎれば熱さを忘れる。の逆の意味で反省することを忘れてしまったのでしょう。

〓 国民の食料を最も軽視した国

■399ページ
 そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通底していました。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の項の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。工場の熟練労働者などには猶予があったのですが。肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が担われるので、44、45年と農業生産は落ちまくる。政府が、農民のなかにも技術者はいるのだと気づいて、徴集猶予を始めるのは44年です。これでは遅い。

◆日本人はやはり兵站が下手だったのですね。根本的なところで間違っている。しかも、同じ兵站の間違いをフィリピン沖でもやっている。国家を守る、つまり国民を守るという意識はどこかにすっ飛んで、とにかく勝利するとか、潔さとかにこだわっていたのでしょうか。

 この本では、残念ながら当時の市民感覚はそれほど伝わってきません。多くは世界情勢とそれぞれの国が取った政策や、政治的経済的関係に絞って説明しているからです。それでも部分的に人々の感覚が語れる場面があります。それによると、やはり個人の生活が第一なんですね。特に農民が困窮しているところに、軍部が農民たちの救済策を打ち出して政治に加担しようとする。当然農民は軍部を支持します。ということは間接的に戦争を支持してしまうとう構造になります。

 こんな風に、加藤教授の抗議は進みます。日本の戦争の歴史を再認識できます。あくまでもそれは事実の一部として、そして、そのことについての善し悪しについては論ずることなく、あくまでもなぜそうなったのかを問います。
 そして、教室の中の臨場感と、学生たちの真剣なまなざしが見えるような、そんな本でした。

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