広くなった、楽しくなった、五味康祐がやってきた 『石神井松の風文化公園』 練馬区
今は、年に一度のお花見シーズンである。天候はあいにく雨模様らしいのだが、散歩も兼ねて石神井公園の桜を見に行くことにした。もちろん、運動も兼ねる。だから、人目を気にせず早足で進む。春のうららかさとは不似合いな散歩なのである。
石神井公園に来たのはおそらく半年ぶりくらいである。入り口に差し掛かると、以前とすこし様子が違うことに気づいた。あの古びた昔ながらの石神井公園ではないのである。三宝寺池側の入り口から入ると、その左手、つまり旧日銀グランドが広々とした公園として石神井公園に取り込まれていたのだ。
もともと石神井公園はその殆どが池である。だから、面積的に広い割には、子供の遊び場となる場所はごく限れていて、若いカップルやお年寄りのための公園といういイメージがあった。しかし、突如として出現したこのだだっ広い空間は、そいうった古いイメージを払拭するものだ。今までの石神井公園が抱えていたすこし陰鬱なイメージがここだけ脱却している感じである。
本当にここは石神井公園なのだろうか。念には念を入れて確認して見ると、実際には石神井公園に隣接する新たな公園であるらしい。名前を「石神井松の風文化公園」という。
「文化公園」などというが、どう見ても運動公園である。広場があり、ゴールポストがあり、そしてテニスコートがある。その上ここは以前は日銀グラウンドだったのだ。それがなぜ文化公園になったのか。からくりは、この建物にあるようだ。早速中に入ってみようと思う。
一見新築に見えるこの建物は、おそらく日銀グラウンドのクラブハウスを改装したものであろうと思う。なぜなら、以前同じ場所にクラブハウスがあり、もし新築で施設を立てるのであれば同じ場所に立てることは不可能だからだ。
日本銀行といえば、建物として有名なのは日本橋の日本銀行本店である。日本橋のその古い建物はネサンス様式という石造りであり非常に重々しく、もちろん格調高いのである。同様に、この公園の施設として改装された建物も、おそらく以前の日銀建造物の特徴を活かしているのであろう。所々に新たな造作が加えられているようだが、なぜだか公園の施設には不釣り合いな格調の高さが、嫌味にはならない程度にかいま見えるのだ。
内装的にはまだ未完成な部分もあるかも知れない。それで、やたらと無駄なスペースが残っている。やがて、そこには彫刻が飾られるはずである。ここにやっとこの公園の名である「松の風文化公園」の名前の由来が見えてきたようだ。
本当に文化の匂いを漂わせるのは、この建物の2階建である。入口ホール中央から左手にせり上がる階段を登り、2階のフロアを覗いてみた。登り切った目の前はガラス張りのテラスがあり、その先には木々が断片をあらわにしている。まるで別荘のような風景だ。
左手にまわると、壁のショーウィンドウにオーディオと書籍が不揃いにならんでいる。ここはつまり、小説家でありオーディオ評論家の「五味康祐」氏に関連する常設展示場であるらしい。以前はゲストハウスとして使われていたとおぼしき小部屋には、五味が永く住んでいた練馬区の自宅の一室を模倣するなどして、オーディオセットが展示されている。
隣接する小部屋が幾つかあり、とある一室にはベンチが整然と並べられてある。そこに座ると正面には古めかしいオーディをセットが据えられている。ここは五味氏が最高峰と崇めたオーディオセットの試聴室である。これは見るからに柔らかい音に包まれそうな雰囲気である。ドイツで生まれたタンノイ(TANNOY)社のオートグラフというスピーカーらしい。6月から月1回のコンサートを開始する書いてある。今は調整期間だが、調整中の音が聴ける。火曜日と木曜日の10時から12時と14時から16時だ。音の調整期間中は申込が不要なので、可能であれば視聴してみたいものである。
この建物に魅せられてすっかり時間を忘れてしまった。ほんの一時間ほどの散歩のつもりが、既に昼飯時を回っているではないか。そう思って、石神井公園の三宝寺池方面まで、例の早歩きで足を向けてみた。すると、何やら祭ばやしが聞こえる。これはどうにもたまらない。いったいどこで奏でているのだろうか、と思い池の畔まで来ると、どうやら三宝寺池にある社の方から聞こえてくる。音色に誘われるまま赴くと、社の前で3人囃子を演奏している。その傍らに穴弁天なる洞窟中の社が有り、今日は弁天様の開放日、というか公開日であるという。以前より、ここは鉄扉が閉じられており、なにやら厳かな場所であることに気づいてはいたのだが、こんな機会はめったにないと思い、早速中に入って柏手を打つことにした。入り口で説明書をくれたので、まずは読んでみよう。
どうやら、この「穴弁天の洞窟」はいつからあるのかはっきりしないらしい。しかし、3年前に30年ぶりの開放を行ったと書いてある。少なくとも1981年頃以前より存在しているたのは確かなようだ。
中に入ると早速土の匂いとカビの匂いが漂ってきた。奥には確かに何かが祀られているようだが、実際の形状は全く解らなかった。祀られているのは宇賀神または宇賀弁才天と言われる神さまである。
この辺りは鎌倉時代より栄えていると聞く。そして、ここより西方には田無という地名があるように、水には恵まれてない土地であった。おそらくこの池の水が乾いた時期があって、近くに住む農民が勝手に洞窟に祈りの場を設けたのではないだろうか。其のために文献などが残っておらず、また近くにある氷川神社の管轄となるまでは人知れずこの社だけが残っていたのかもしれない。そこに人の営みがあった。そして、古さを匂わせるこのかび臭さを、鎌倉時代の人も感じていたに違いないのである。
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