日記・コラム・つぶやき

変わりつつある石神井公園

 石神井公園は東西に長い。そしてその中央を南北に走る道路が分断している。東には石神井池、そして道路を挟んだ西側には三法寺池がある。この池は周辺の土地よりも下がり、太古より存する神話に出てきそうな神秘的な佇まいである。

 この、閑静な住宅街の中にある池は、西側から侵入するとほとんど人がいない、忘れられた土地のような、そんな面持ちであるのだが、やがて三法寺池周辺に到達すると、カメラを手にした多数の老人たちに出くわすことになる。そして、そのほとんどがもちろん男性であり、彼らはあたかも仲間を求めつつも自分が一個の独立した存在であることを誇示するかのようでもある。

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 三法寺池の周遊道は板引きになっている。これは確か20年前に整備されたものであるのだが、妙に新しい感じがする。その板引きの上を歩き、年老いたカメラ小僧とすれ違いながら東の端に到達すると、2車線の割と車の往来が多い道路にぶつかる。都道444号線というなんとも縁起の悪い番号の道路である。この道路を渡ると石神井池だ。
 石神井池は三法寺池よりも細長くそして周辺が開けている。池の上にはボートが往来しており、すこし井の頭公園にも似ている。カメラを持った老人の数は減り、そして子連れの家族が目立つようになる。あたかも都道444号線が世代を分断してるかのようなのである。
 この若い世代が多い石神井池の南側には運動公園がある。石神井公園B野球場である。つまりA野球場もあり、そちらは三法寺池側の北東に位置している。

 石神井公園B野球場からもう一度石神井池側に戻り、石神井公園の東の端にある駐車場でこの東西に長い公園は終わる。しかし、この東の端には新たな事務所ビルが建ち、そして新たな店舗が立ち並びだした。この地点から石神井公園駅まで到達する道路は拡幅工事をしているのである。拡幅と言っても、もともともの道路が狭いのであるから、車の通行にはつらいであろう。おそらく、ここは裏参道的な位置づけになるのではないか。そういえば、石神井公園駅からこの石神井公園までの道程には、バスがやっとすれ違うことができる、しかも車の往来の多い通りしか思いつかなかった。
 この裏通りは実際静かだ。車もほとんど通らない。その道路の片側に鉄パイプで道路部分が区画されている。拡幅中の通り沿いに歩くと、やがて西武池袋線石神井公園駅の東の端に到達する。さらにその道路沿いに歩くと、高架橋下を通り越し、石神井公園駅直結のタワーマンションにつながるのである。

 駅直結のタワーマンションは確か10年ほどまえにできたはずだ。おそらく石神井公園駅の人口は一挙に3000人程度増え、やがて公園に流入する人口も増えていったのだろう。石神井公園の石神井池からは、このタワーマンションの上層部がはっきりと見える。つまり、タワーマンションの住民は、そのベランダや窓からこの石神井公園を見下ろしながら日々を過ごしているのである。
 そんな住民たちが、石神井公園までの道程に安全を求めるのは当然であろう。この拡幅工事は高層マンションの住民のために作られている。そう思うと、実際にはそうではないにしてもわずかな理不尽を感じてしまう。
 私は、石神井公園の西の端にあるほとんど人通りのない一角を思い出した。おそらく、あの辺境の地までは、このマンションの住民たちは足を踏み入れることはない。なぜかそう強く願うのであった。

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この変わらなさがすごい 『ケンコー書見台』 レイメイ藤井

〓 昔のことで記憶が定かではないほど古いもの

 じつは、私は書評を書く前に読んだ本の要所をEvernoteに転記している。時にはiPadで、時にはネットブックで、あるいは気が向いたときは7notesを使って手書きで転記したりもする。そんな時に活躍するのが書見台(しょみだい)というやつだ。つまりこいつは目立たないが結構重要な脇役だったりするわけだ。もちろん主役は本。
 ところが、このケンコー書見台、私が小学生の時から使っていた記憶がある。形も今と全く変わらない。発売されたのは1961年らしいから、もうかれこれ半世紀もの間、形を変えずに売れ続けているという驚異的なロングセラーである。

 今年高校生になった私の娘が、このケンコー書見台を欲しがった。そこで、Amazonでもっと良い書見台がないかと、早速探してみた。ご多分にもれず、男親は娘に甘いのである。
 すると、書見台はけっこう存在することが分かった。いろいろな形があるのだが、その中にこれはと思うものを見つけてよく調べてみた。するとどうだろう、これが今使っている書見台のメーカー「レイメイ藤井」が作っているのだ。相変わらずシンプルな構造であり、使い勝手も良さそうだ。今使っている書見台と同じものにしようかと少し迷ったが、デザインが気に入って新しいタイプの書見台「レイメイ藤井 ブックメイト」を購入することに決めた。娘から大いに感謝されたことは言うまでもない。

 ところで、このケンコー書見台もさぞかしロングセラーとして有名なのではないかと思い、再びネット上で検索してみた。ところが、このことを話題にする記事はあまりなく、うっすらと寂しい思いをしただけだった。ただひとつ、「文マガ」というマイナーそうなサイトが2011年に「レイメイ藤井」の記事を掲載していた。
 このレイメイ藤井と言う会社自体は明治に熊本で和紙を販売したのが創業らしい。いわゆる老舗に近い企業であり最近ではペン型ハサミ「PENCUT」を発売して、これが結構売れているという。文具が好きな私としては、ちょっと気になる。

 「ケンコー書見台」というのは、なんだか限りなくマイナーな道具なのだが、よくよく細部を見ると改めてその完成度の高さに驚かされる。とともに、小さな企業の積み重ねによってロングセラーを続けているとても希少な製品だと思う。

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新旧の製品を並べたところ。
左が昔からある書見台。右が新製品。
裏側はどちらもフェルトが貼ってあり、
傷つきにくく滑りにくい。
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斜め前から見たところ 斜め後ろから見たところ。
新しい製品は角度が段階的に変わる。
古い製品は無段変則的に角度を変えられる。
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実際に本を挟んでみたところ。
左が新しい書見台に新書、
右が古い書見台に単行本。
今度は逆に、左が新しい書見台に単行本、
右が古い書見台に新書。
新書はページが狭いので多少抑えにくい。

古い製品は既に製造していないのかと思ったら、どちらの製品も購入できるようです。ついでにPENCUTなる製品も紹介しておきます。

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新年から、ブログを一新することにしました

新年あけましておめでとうございます。

当ブログ、実はいままでは
「アイフォニアにはこれがいい!」
というタイトルで書いておりましたが、国内におけるiPhoneの情勢が変わったため、ブログタイトルからアイフォンを外すことにしました。
要するに、アイフォンという言葉自体珍しいものではなくなったので、今更「アイフォニア」などと名乗ってもね。
ということです。

 でも、今まで通りアイフォーンネタは書く予定です。もっとも最近ほとんど書いていないけど。
 それと、今までは時事ネタは一切やらないポリシーでしたが、今後は書評とともに時事を扱うことにしました。その詳しい事情は下記の通り。

〓1.ブロゴスにはまってしまって・・・

 著名人や政治家なども記事を載せる「ブロゴス」というサイトがあります。間近な時事問題が語られるため、読んでいると勉強になります。さらにこのサイトでは自分の意見をコメントとして載せることもできるんですね。私も何件かコメントを載せているうちに、ほかの読者の支持を得られたり反論されたり。この対応はいつの間にか時間を失います。結構大変なんですね、自分の考えをまとめて書き出すというのは。
 そんな作業をしているうちに、ブログ記事を書く時間も減っていることに気づきました。これではいけない。いや、いっそのこと早く記事を書けるよう鍛錬して、どちらにも対応していこう。というのが、今回から時事を扱うことにしたきっかけです。

〓2.世の中が大きく揺れ動いている今だからこそ

 いままでは、自分のペースを保つためにも、そして自分が書いたブログ記事を陳腐化させないためにも時事ついては書きませんでした。しかし、どんな記事でも古くなれば価値は落ちるもの。書評にしても、古い本に対するものはあまり読まれないし。そして、世の中の動きが激しい今だからこそ、自分の主張を残しておきたい。そう考えるようになりました。

〓3.ついでに名前も変えました。ブログ名称の由来は以下の通り

世に棲む日々ならぬ世に倦む日々
 あることをきっかけに「世に倦む日々」というブログを知りました。これはなかなかよいブログ。日々の政治に対して丁寧に書いている。このブログ名は司馬遼太郎の小説「世に棲む日々」を一字だけ変えたものらしいです。
 そこで私も書籍を探しました。手元には「おしまいのページで」という古本屋で入手した書籍があり、私はこの本をいたく気に入っています。そこで、少し変えて「おしまいのページにて」というブログタイトルにしました。書評を中心とするブログ名としては良いと思っています。

〓4.その他にも今回ブログを一新した理由がある

日本の右傾化について
 国内でも海外でも、日本が右傾化しているとかいないとか騒がしい。しかしどう考えても右側に大きく傾いていることは否めません。それは「ブロゴス」を読んでいてもよくわかります。しかもいまの政治は覇権主義的。マスコミと大企業と官僚と老人と、これらの既得権益が一緒になっているのだから、どうしようもないのです。
 去年の6月に戦前昭和の日本について書いた書籍を5冊読み、「シリーズ戦前昭和」という記事にしました。今の日本は戦前昭和と非常に似ている。さらに右傾化があればまさに軍国主義を連想させられる。軍国主義に移行する前に言論弾圧が始まるはずです。それが始まる前に、少しでも意見を述べておこうと思い、ブログに対する姿勢を変えることにしました。

ということで、本年もよろしくお願いいたします「(^^)

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金魚鉢に見える幸せとは 『2012年2月24日、朝まで生テレビ:”幸福な若者”の本音』

〓 とりあえず幸福な若者の幸福論

 朝まで生テレビを見ている。今日の議題は若者による若者論。出ている人たちは全員個人的に将来の心配がなさそうな、一応若者たちだ。
 田原さんが議論の発端としたのは総務省が調査した日本人の満足度調査。この調査では単純に、「全体として、現在の生活にどの程度満足しているか?」といった質問をしたのだから、主観的な回答しか得られていない。宋文洲さんから、どこで調査しても同じような結果となるという意見がでた。それはそのとおりだと思う。「あなたはいま気分がいいですか」という質問の結果に限りなく近いだろう。

 そこで、今の若者たちが満足(幸せ)と回答した比率が高かったものの、将来不安や日本行政の問題点を顕していないという結論になった。幸せと回答した若者たちの中には、「今はまだ幸せである」という回答も含まれているかもしれない。グラフの結果は中年の値が低くなるすり鉢型を形成した。今という時間軸で切り取った答えを世代別に統計を取っていることを想定して、時間を前後に引き伸ばした場合の表を書いて見た。これは私個人の仕業。結果的に「今幸せ」ということと「将来幸せ」ということとは無関係だ。

若者 : 昔幸せ →今とりあえず幸せ →将来不幸かも
中年 : 昔幸せ →今は以前より不幸 →将来不幸かも
老人 : 昔幸せ →今の老後は幸せ  →将来どうでもよい

 番組では、このままではこの国の将来はみな不幸になるという意見が出た。田原さんがこの議論で取り上げたのも、若者の将来が暗いからだ。なのに、若者たちはなぜ声をあげないのか?という疑問だ。東浩紀からかえってきた答えは「それでいいじゃん!何が問題?」といったもの。彼は「悪魔の囁き」の役。評論家荻上チキの意見はまともで「問題に気づいていいないのなら気づかせるべきだ」というもの。彼は議論の修正役に徹していた。

 この議論の中で、もっとも白熱したのは少子化問題。少子化は確実に国を滅ぼすというのが大方の意見。もっと政府が少子化対策を進めるべきという意見。日本全体が少子化に対する問題認識が無い。千葉市長熊谷氏は特に老人たちにその認識がないという。子ども福祉に力を入れると、老人たちから「老人福祉になぜ力を入れない!」と怒られるのだそうだ。

 確かに少子化は問題の根源だ。なぜなら、年金問題、雇用問題、経済、教育、格差すべてに絡む問題だからだ。子どもは国を維持している国民の原初だから、あたりまえである。ではなぜ、少子化問題が解決しないかというと、老人が多いから。彼らは自分たちのことしか考えない。もうすぐ死ぬのだから10年後の日本はどうでもよいのだろう。そして民主主義のジレンマが始まる。将来を考えない老人たちが握っている票が日本の将来を決めようとしている。
 このダウンスパイラルを転換することができるのは国民の意識だと思う。国民の意識を時系列のピンポイントで一気に変える必要がある。それができるのはファシズムだろうか。そうではないとしても、民主主義のジレンマを転換できるのは、民主主義以外の何かで無ければならないことだけは確かだと思う。

 久しぶりに朝ナマを見たのだが、面白かった。田原総一郎が意外と元気でびっくりした。しかし、今回の議論で「格差と貧困」が扱われなかったのは残念である。赤木、湯浅、雨宮といった本当に一般の若者の側にいるメンバーにも出てほしかった。なぜなら、実際に民衆の意識を変えることができるのは、今不満を持つ民衆だと思うから。この番組からは残念ながら問題を抱える当事者としての声が聞こえないのだ。
 番組としては面白い。しかし、効果は薄いかもしれない。実際には金魚鉢のなかの金魚を見ながら議論してるだけではないか。その金魚とは、無策を繰り返す老政治家たちだ。彼らには金魚鉢から飛び出す能力が無いし、そうする必要も無いだろう。だれか金魚鉢をぶち壊さないか。

 結局、議論は最初からあった結論に戻る。若い人間が立ち上がらなければこの国は変わりようが無い。立ち上がるきっかけが無いのかもしれない。宋さんの一言が一番響いている。一度どん底まで落ちれば、再び希望を持って日本人は立ち上がるだろう。

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ステマは捨て置け!:AppStoreで、サクラ満開人気アプリが登場

 iPhoneAppStoreでステルスマーケティングによる、サクラによる人気アプリが登場してるようです。AppBankさんのツイートから、デジマガさんの告発&注意喚起記事で知ることができました。

http://digimaga.net/2012/01/iphone-ebook-app-no-stealth-marketing

 これは、ひどいよ。黙ってられない、捨て置けない。普段はジャーナルを扱わない方針で進めてきたこのブログでも、一言いわせてほしい。

〓 そもそも「ビジネス本」自体が一つのビジネスである

 この事態を解説したサイトでは、AppStoreの仕組みではサクラの評価者なのかを判別しにくい。と評価していました。しかし、Amazonでも以前から、特にビジネス本の分野ではサクラによる評価記事があったのは、みなさんもご存じのことでしょう。そして、今回のサクラによる評価をあげていたのも、主にビジネス本分野が多いようです。ここでは、なぜビジネス本の類でサクラレビューが行われるのかを考えてみました。

 ビジネス本の功罪については以前の記事にも書いたとおり。です。この分野の本は(一部ではありますが)本を出版すること自体が一つのビジネスになっているのです。つまり、本の内容に付加価値をつけて、それに見合った収益を上げることが目的なのではなく、その本そのものをいかに売りさばくかが目的となっているのです。一種のネズミ講みたいなものですね。「この本を読めば(買えば)儲かりますよ」といいつつ、その本を売った本人がチャッカリ儲けている。と、そういう構図が見えるわけです。マンション投資の勧誘に近いかもしれません。そんなに儲かる話なら、わざわざ人に話して利益を手放す必要などないではないか。と、誰しも疑問に思う、あの手の勧誘電話。と同じです。

〓 この手のステマは蔓延するか

 そもそも彼らが、古臭い手法でこの新しい市場に乗り込んだのが間違いの元でしょう。しかもタイミングが悪すぎます。ついこの間、食べログの不正投稿疑惑が話題になったばっかじゃん。

 自助共同で成り立ってる民衆メディアに、企業が利益をかすめ取ろうとして外から乗り込んでも、必ず排除されます。と、これは私の理想論。というか「クルートレインマニフェスト」
の受け売りです。この本には、いかにして企業がソーシャルマーケティングに失敗するかが書いてあります。今回は、その典型といえます。
 つまり彼らの目的と、とるべき行動が一致していなかったということです。それは、基本原理が違うから。ソーマが求める基本原理は、共感ですが、彼らが求めるのは自社(自分)の利益だけだからです。共感を得られない書き込みをしたら、そりゃ排除されるでしょう。

 それにしても、結果は見えていたんだろうけど、なぜあえてこんなことをしたのか、理解に苦しみますね。かれらの脳レベルが、本の内容と同レベルだった、ということなのだろうか。それとも稚蜜な計算で、利益が出ると踏んだのかなぁ。

 今回のそれは非常にわかりやすく、デジマガさんが早々に発見したことで、地雷を踏んだ形となりました。本を買ってしまった人には申し訳ないけど、もう勝手にやってくださいという感じです。どの道彼らのビジネスは、こういったマイクロ発言の積み重ねによって駆逐される運命なのですから。
それでは失礼しました「(^^)

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なぜ日本で電子書籍が普及しないのか?

〓 電子書籍を読みきれないワケ

 去年が電子書籍元年といわれているのなら、今年は電子書籍普及の年、になるはずなのに、なぜか今になっても日本でブックリーダーが売れたという話を聞かないし、電子書籍のベストセラーなんて見る影もない。そこで、ふと思ったんです。
 自分も電子書籍を購入して読んでいる。無料の電子書籍ならiPadの中にたくさん入っている。しかしどうしたことか、実際にはただの一冊として読み切ったものがないんです。なんでだろう。

〓 読書にも身体性はある

 そこで自分はこんなふうに思うわけです。
 紙の本を読んでいるときは、確かな消費の感覚がある。ぶ厚い本はずしりと重く、薄っぺらな本は軽いのです。視覚と触覚とのバランスが、読むという行為の確かさをもたらしてくれるのかもしれません。読書は精神的な活動ですが、やはり身体性というものが大きく影響しているのだろうと思うのです。
 紙の本であれば詩織を挟むときに、もうそこまで読み進んだということが厚みで判る。電車を降りる時に、さっと詩織を挟み込む、あの感覚。その時に挟んだ詩織の位置が本の厚みを二等分していれば、小説の残り半分の展開に思いをめぐらせることができます。作家が創ったストーリーの中の「今」を、本の厚みが示してくれるのです。
 しかし、電子書籍の場合は、このような身体的な感覚がないせいか、なんとも浮遊した感覚に陥ってしまいます。読み進んだ物理的な量が見えないことが、本への集中を阻んでいるのでしょう。これは、かのニコラス・カー氏の著書『ネット・バカ』でいう、「浅い読み」に近い。ディスプレイに映るネット上の文章が、なぜか読み飛ばしがちになるのと同様に、電子書籍はディープな読み方をできなくしているのでしょうね。

〓 電子書籍はどこにある?

 電子書籍は、部屋の片隅に積んでおく…、ということがきません。電子デバイスの中にあって見えない電子書籍は、読むきっかけさえも掴みにくいのです。押し入れの奥に積み上げた本と同じで、自分がその存在に気づかなければ再び目に留まることはないような気がします。つまり電子書籍は自らを主張することなく、埋没しやすいということです。だから、一度読むことを中断した電子書籍というものは、そこで自分の記憶から消えてしまい、結局最後まで読み切るということを難しくするのでしょう。
 これらは、電子書籍の利便性、つまりそれ自体には重さや厚みがないことの裏返し。だからこそ、専用の電子書籍端末、ブックリーダーが必要なのです。私が読むべき本、あるいは読みかけている本が入ったブックリーダーがひとつだけ手元にあれば、私の記憶から薄れかけた本も、電子の海に埋没する事はなくなるだろうと思います。

〓 出版業界は、一方で電子書籍を普及させたくないらしい

 しかし、電子書籍が普及しない理由には、電子書籍の罪ではなく、日本の出版業界による功罪もあると思います。
 版元や流通の囲いこみにより、ブックリーダーで読める書籍が限定されます。さらに、電子データのフォーマットの違いが、電子書籍の送択枝を狭めることになります。例えば電子書籍の小説などは、私たち読者の目にふれる前に、フォーマットの違い、版元の違いなどいくつもの分枝点を通りぬけて、やっと読者の目にたどり着くのです。その結果、一種類のブックリーダーで読む事できる書籍は恐ろしく限定されることになる。これは、著者にとっても読者にとっても、不幸な結果と言わざるをえないのではないでしょうか。
 さらに悪い事に、電子書籍の価格設定の問題もあります。流通やフォーマットは不統一なのになぜか価格だけは統一されているのです。同じ内容の本が、紙の本と電子書籍との両方で出版されていなるなら、コストを割引いて電子書籍は安くなるはず。ところが同じ小説でも、単行本から文庫本になるときは値段が安くなるのに、電子書籍と紙の本は大して値段が違わなかったりします。……。ならば電子書籍を買う理由はない。今までどおり、紙のリアルな本を買ったほうがいいにきまっています。今の値段で電子書籍を買うということは、ビデオレンタルに上映映画と同じお金を払って観るようなものではないでしょうか。

〓 電子書籍の普及は、もう少し先になる

 結局どれをとっても、電子書籍を購入する理由が見えてこない。だからブックリーダーを買う理由もなくなる。将来的には電子書籍は普及するだろう。でも、今はまだその時期ではないという事でしょう。私が考えた、日本で電子書籍が普及しない理由とはこんなとろです。
 いつかは電子書籍が当たり前になる時がくる。しかし、そのときでも紙の本も書店も消えないと思います。むしろその存在が電子書籍への移行を促すように機能するのではないでしょうか。例えば、書店で紙の本を手に取り、購入するときに電子書籍版を選択できるようになれば、きっとブックリーダーも電子書籍も普及するでしょう。もちろんそのときは、紙の本の半額で電子書籍のみを購入できなければならない。それで書店にマージンが落ちれば、誰も文句を言わないような気がします。
 書店で本を手に取り、厚みを確かめ、冒頭を読んでから本を購入する。そのときに、電子書籍でもよければ、それを選択して購入する。そういう仕組みができれば、私は毎日ブックリーダーを持ち歩くだろうし、書店にも足を向けるのですが。

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