映画・テレビ

やはり医者はバカだ 『破裂』 NHK

 前回紹介したNHKの問題作。昨日最終回を迎えたNHK土曜ドラマ『破裂』はまさしく衝撃の終焉を迎えたと言っていい。そこで、ふつふつと湧き上がるネタバレを抑えて、その一部だけを語るにとどめる。

 厚労省のマキャベリこと、佐久間は自らの夢である自由死法案を掲げながら最終的には世に戻ることのない死の床に就く。そして「殺してくれ」と香村に頼む。
 心臓の再生治癒薬を開発し老人を死の床から世に戻すことに、医者としての使命を負う香村は、佐久間に向かい「頭を使え」そして、「これから世の中がどうなるか、見届けろ」という。
 しかし佐久間は永い死の床に伏しながら、「やはり医者はバカだ」と言う。

 この場面では、正義が勝ち、悪は滅びる。まさにドラマのひとつのパターンを再現するのだ。人々はこの最後のシーンにおざなりの喝采を与えるだろう。しかし、現実はそんなに甘くはない。ぐい、とドラマの最後の一瞬で聴視者はこの世の現実を突きつけられて、そして一瞬にして甘美な勧善懲悪を覆されるのだった。
 このドラマの中では佐久間は悪と思われながらその存在価値をを示している。だがしかし、本当にそうなのだろうか。
 今、日本では「戦争法案」と呼ばれる安保法案に反対の声が聞こえる。SEALSが立ち上がり、若者が反対の声が上がる。戦争で死ぬのは若者だ。そして、年金はいずれ枯渇する。とにもかくにも、若者の未来は老人たちに奪われている。若者を死に追いやり、そして老人を生きながらえさせようとしている。
 マキャベリの問いはおそらくこうだ。「世の中の老人の無駄な生が、若者の未来を奪っている。そして、若者がその身を未来に置いたとき絶望が迫っているとしたら、そして、そのころ老人はすでにこの世にいないとしたら、私たちはどちらの生を選択するべきだろうか。」
 そして、忘れてはならない現実は、一定の老人が死を願っていることだ。死そのものを願っているわけではない。人工的な生を拒否しているのだ。そのことを知った時に人々は答えを見出すだろう。しかし、そのことを知るには自分が老人になるまで待たなければならない。佐久間は老人になる前にその現実を知った。そのことで見出した答えが、このドラマの結末で語られるのだ。

 このドラマで佐久間は積極的に老人を減らそうとたくらむ、つまり老人の生きる権利を不当に奪おうとする悪人のように描いている。そして、「自由死法」という法案を掲げる。しかし、本当の目的は違っていた。老人を減らすためではない。人々を人工的な生の苦しみから救うために考え抜いたものなのだ。ピンピン生きてぽっくり死ぬ。それを人工的に実現しようとした。それを阻んだのは、頭だけで物事を実現しようとする医者の過剰な正義感であったのだ。
 この問題は今に始まったものではない。米国の一部では安楽死法が成立していることから分かるように、過去からそして世界中で問題視されてきたのだ。そのことに関連する過去に書いた記事を紹介して締めくくりたい。

・幸せな死に方があってもいいじゃないか 『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 中村仁一著

・死に時をわきまえよう 『日本人の死に時』 久坂部羊著

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小説を読むにも映画を観るにも 『歩いても歩いても』 是枝裕和著

歩いても歩いても [DVD]

 最初に小説を読むべきか、それとも映画を先に観るべきか。
 そんなことで私はよく悩みます。しかし、大概の場合は、小説を読んでから映画を見るとがっくり来たり。だから映画を見てから小説を読むのがよいのかもしれません。心のディテールは小説ではないと顕れませんからね。
 それに、小説の表現と映画の表現は微妙に違っていたりします。これってそういう意味だったのか!という発見もあるし、小説を読んで自分の頭の中で妄想した人物イメージと、映画の配役が全然違っていたりして、がっかりすることもありますね。例えば「八日目の蝉」「魂萌え!」などがそうなのかもしれません。

歩いても歩いても

 しかし、それはおおかた小説の作家と、映画の監督が違っているからなのではないでしょうか。そんななか、この小説はちょっと違います。まず映画を制作した監督が、そのまま小説に書き下ろしたというのが新しい。だから、映画の中でも小説の中でも訴えたいことがクリアに伝わります。小説で読んでも、映画を見ても日常の中のちょっとだけ不思議で物哀しい出来事が自分だけの共感を感じさせてくれます。
 カンヌ映画祭で「そして父になる」が審査員賞を受賞しました。今回紹介したこの作品『歩いても歩いても』は、それほど話題にならなかったようですが、小説を読みたい派にも、映画を見たい派にもおすすめの一冊、一本です。

〓 日常のディテール

 さて、物語の内容はこんな感じになります。

 主人公は、父親にコンプレックスを持っている。だから40歳になっても安定した定職についていない彼は、実家に帰りにくいのだった。しかも、最近、子連れの女房と結婚したばかり。
 意を決して彼は実家に帰る事にした。若くして死んだ彼の兄の法事のためもあった。
 日常の中にある父と子の関係。自分の子供との関係を、そのディテールを行間に挿入しながら物語りは展開してゆく。小さな葛藤や小さな思いやりが、あるいはぼんやりとした憎しみが、気づかぬ流れに乗って語られるのだ。

 小説も、映画も巧みに心に響くリアルさの断片で構成されていて面白い。たった一日の出来事なんですがね、そこに家族の過去や小さい頃の思い出が挿入されていて、ものすごく厚みのある作品に仕上がっています。

 是枝さんにとってこの小説は、小説としては初めての作品らしいのですが、文章も素晴らしいと思いますね。いくつか抜き書きしておきます。

119ページ
 母は僕らに背を向けたまま墓石の周りの雑草をむしっている。僕は抜かれてしまったひまわりの、まぶしいくらいの黄色を見た。母は不快そうだったけれど、僕は逆だった。あまり長くは無かった兄の人生の中にも僕らの知らない誰かがきっと存在していて、その誰かの中には僕らの知らない兄が存在している。もしかすると兄はその人に「ひまわりが好きだ」と話したのかも知れない。誰かに「ひまわりのようだ」と言ったのかも知れない。誰かに兄がそう言われたのかも知れない。そして、言った誰かが、兄の笑顔を思い出し、わざわざ町で花を買ってここまで来てくれたのかもしれない。よくわからない。ただ、もしそんなことがあるのなら、人生もそれほど悪くないではないか。

 次は、日常のリアルを思いっきり共感させる会話です。

175ページ
「ナイターやってんじゃない? こういうの屋根につけたからBSも映るわよ」
 母は振り返らずに両手で大きな丸を作ってみせた。父だけでなく母まで未だに僕のことを野球が好きだと思っているのだ。
「いいよ、別に……」
 僕はわざと素っ気なく言った。
「テレビも最近観るものなくてねぇ。面白くもないのに笑い声だけ賑やかで。あれ足しているんでしょ? あとで」

 この作品を象徴する文章だと思うのが以下の部分です。兄がその命と引換に助けた青年の顔を、母が相撲取りに似ていると言いながらその時は力士の名前を思い出せなかったのに、母と別れてからふと思い出す場面です。おしまいのページ近くに登場します。

223ページ
「思い出した。昨日言っていた相撲取り……」
 あぁその話かとゆかりは気のない相槌を打った。
「黒姫山だ……」
 そこに父と母がもういないのはわかっているのに僕は思わず振り返った。バスの後ろの窓から海沿いの道を見やり、ため息を吐いた。
「いっつもこうなんだよ。ちょっと間に合わないんだ……」
 運転手がギアを変えたのか、バスはガクンと一度大きく揺れると速度を上げて走りだした。窓の外に流れていく海は、さっきまで荒れていたのが嘘のように、空を映して穏やかに青かった。

 黒姫山の話はそれっきりになった。僕は結局父とはサッカーには行かなかったし、母を車に乗せてやることも一度もなかった。あぁ、あの時こうしていれば……と気付くのは、いつもその機会を僕がすっかり逃がして、取り返しがきかなくなってからだった。
 人生はいつも、ちょっただけ間に合わない。それが父とそして母を失ったあとの僕の正直な実感だった。

だからこそ『そして父になる』に大いに期待しています。

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