書籍・雑誌

いまこの三冊の本を読まなけらばならない理由

 昨年は読書収穫の多い年だったと思う。いろいろ事情があって多読はできなかったもの、それだけに質の高い書籍を読むことができたのだ。それでは、まさに多くの方にお勧めしたい三冊の本をこの場を借りて紹介しよう。

1.「死すべき定め」アテゥール・ガワンデ著、みすず書房

 この本は、2回読んでいる。私は1冊の本を繰り返して読むことがあるが、そのような本はまさに自分にとって価値が高いものと感じるからである。人間が死に直面した時の尊厳、あるいは生存と死の権利をいかに扱うべきか、というのがこの本のテーマである。私たちは、生きる理由を求めなければならない。と同時にそれは死ぬ理由の裏返しである。

 私たちは、戦後から実は畳の上では死ねない、という不思議な世界に住んでいる。それが正しいことなのかをこの本の著者は問うているのだ。

2.「セカンド・マシン・エイジ」 エリック ブリニョルフソン 著/アンドリュー マカフィー著、日経BP社

 この本は、一度図書館で借りて読んだ後に、キンドルの電子書籍を買って再読した本だ。つまり、今後も何度かこの本を読むだろうと考えている。

 これまでも、レイ・カーツワイル著の「ポスト・ヒューマン」をはじめとして、AIやロボティクス関連の書籍を読んできたが、人類とマシン(この書籍ではAIやロボティクスをセカンドマシンと呼ぶ)との関係を包括に捉えた本は、この本以外にはないのではないかと思う。まさに、ニコラス・カーの「クラウド化する世界」の技術的拡大版である。

3.「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社

 これは現在読んでいる本である。のっけから面白い。そして、最後はおそらく人類の死とAIとの関係性をうまく説明してくれるのではないかと期待している。さあ、今日もこの本の続きを現実の布団の上で、お酒をちびりとやりながら読むのである。

 一見するとこれらはまったく脈絡のない書籍の集まりに見えるかもしれない。しかし、これらに通底するのは、生命とは何か、という問いである。しかし、生命とは何かをとらえるためには、3冊程度の本を読んだだけで理解できるわけではない。おそらく、いずれいつの日か「生命、エネルギー、進化」(ニックレーン著、ミスす書房)を読まねばなるまい。まだまだ、冒険は続くのである。私の生命が続く限りは…

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日本史ねなんて言わなくていい世界 『朝がくる』 辻村深月著

 最近事情があって殆ど本を読んでいない。でも、たまには読んでみようと思う。思うのだが、目的とする本がない場合は、そこいらにある本を手にする。そして読み始める。
 本の手触りを感じる前に、文章が読んでほしいと主張する。この本はそんな本であるのかもしれない。そいういった本では最初にハッとする場面があるものだ。そこが琴線となり徐々に小説の深みにはまっていく。

 読んだ後に考えるのは、その本の主張が垣間見えるからだ。「朝がきた」は、大人と子供の違いを明確するヒントを与えてくれた。そんな小説だった。
 大人と子供の違いを明確にしているのは、守るものがあるか、守るものが自分であるのかの違いだ。そして、もう一つは、守ることができるのか、できないかの違いだ。この小説の中で、子供を守ることができる大人が子供を授けるが、しかしその子供を産んだのは、その子供を守ることができない子供である。子供を産むことができるということは、残念ながら大人であることの証ではない。そのことをこの小説は訴えている。

 例え子供を産むことができなくとも、大人であれば子供を守らなければならない。例え赤の他人が生んだ子供であっても。
 社会が子供を守ることができなければ、それは社会の崩壊につながる。大人の役割は、子供を大人にすることであって、その子供が大人になった時、だれの子供であってもその子供を守らなければならない。輪廻転生という言葉が浮かぶ。
 果たして今の社会がこのような摂理に従っているのだろうか。私たち死にゆく人間は、生き続ける人間を保護しなければ、未来が無くなるのではないか。そんなことに緩く気づかせてくれるストーリーが展開される。かつて「日本シネ」と叫んだのは、日本の未来である子供たちをないがしろにしつつある現代社会への警告であることがわかる小説であった。

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美化されつつある死を見極めよ 『総員起シ』 吉村昭著

総員起シ〈新装版〉 (文春文庫)

 戦後70年経った今も戦争の記憶は多く書籍に生きている。この事実が私たちの将来に語りかけるのは、人々の死に対する忌避と羨望との葛藤である。
 吉村昭の小説『総員起シ』は戦争の現実を美化するのではなく、まして悲惨さを訴えるものでもない。ただただ、その時の人々の表情を記録したものだ。

 『総員起シ』を読んだきっかけは、アマゾンで購入した長いタイトルの電子書籍「戦後70年記念企画 半藤一利・佐藤優 初対談 あの戦争を知るために今こそ読むべき本はこれだ!」である。この紹介記事には、『総員起シ』の中に、北海道の終戦時の出来事が記載されていることが書いてあった。実は、私の父母は揃って樺太からの引揚者である。しかし、樺太引き上げに関する記述をした小説は数少ない。そのため「これはぜひとも読みたい」と、私はそう思ったのだ。

『総員起シ』は5編の短編小説で構成されている。

 「海の柩」は北海道中央南端のえりも地方の小漁村で、終戦間際に数多の兵士の水死体が浜辺に打ち上げられた出来事が綴られている。そして、その多くが手首を切り取られていたという。そのおぞましい事実の理由が徐々に明らかにされていく。
 「海の柩」を読んでいるうちに、この小説を読むきっかけとなった「あの戦争を〜」の文章が気になった。そこには、船上で手首を切ることなど到底不可能だ、という記述がある。よもや吉村昭の小説に虚偽があったのあろうか。しかし、もう一度「あの戦争を〜」のその部分を読み返すと、それが大きな勘違いであることが分かり、私は安堵した。虚偽の記載をしたのは吉村昭ではなく、吉田満著『戦艦大和ノ最後』という小説であるらしい。やはり、吉村昭は事実を曲げない小説家なのである。

 「手首の記憶」は樺太市民の引き上げ時の出来事だ。私の母から聞き出した当時の記憶と重なるところが多くある。樺太では終戦後もソ連による戦闘が続いていたことは、多くの記録にある通りだ。しかし、この事実は日本国内では今や知られていない事実であることが多くなっているのではないか。

 「烏の浜」は留萌の近郊の沖合で沈没した樺太引き揚げ船「小笠原丸」の実像をあぶり出す。この事実もやはり私が母より聞いた記憶と一致するところが多い。

 「剃刀」は一転して、沖縄戦における日本軍の戦闘の模様を記録している。美化された戦闘の模様を取材により覆し、混乱の中における人間模様を事実として記録したものだ。

 そして、最後の「総員起シ」は、終戦後間際の「伊号第三十三潜水艦」の訓練時における事故を記録した。5編の短編の中では最も長く、そして圧巻である。前4編と異なる何かが吉村昭によって注ぎ込まれる。そう感じざるを得ない。しかし、それは怒りではない、何かの力が注ぎ込まれているのだ。その筆力は、私の臓物まで染み込んでくるようであった。まさしく『総員起シ』は今こそ読むべき本なのである。

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やはり医者はバカだ 『破裂』 NHK

 前回紹介したNHKの問題作。昨日最終回を迎えたNHK土曜ドラマ『破裂』はまさしく衝撃の終焉を迎えたと言っていい。そこで、ふつふつと湧き上がるネタバレを抑えて、その一部だけを語るにとどめる。

 厚労省のマキャベリこと、佐久間は自らの夢である自由死法案を掲げながら最終的には世に戻ることのない死の床に就く。そして「殺してくれ」と香村に頼む。
 心臓の再生治癒薬を開発し老人を死の床から世に戻すことに、医者としての使命を負う香村は、佐久間に向かい「頭を使え」そして、「これから世の中がどうなるか、見届けろ」という。
 しかし佐久間は永い死の床に伏しながら、「やはり医者はバカだ」と言う。

 この場面では、正義が勝ち、悪は滅びる。まさにドラマのひとつのパターンを再現するのだ。人々はこの最後のシーンにおざなりの喝采を与えるだろう。しかし、現実はそんなに甘くはない。ぐい、とドラマの最後の一瞬で聴視者はこの世の現実を突きつけられて、そして一瞬にして甘美な勧善懲悪を覆されるのだった。
 このドラマの中では佐久間は悪と思われながらその存在価値をを示している。だがしかし、本当にそうなのだろうか。
 今、日本では「戦争法案」と呼ばれる安保法案に反対の声が聞こえる。SEALSが立ち上がり、若者が反対の声が上がる。戦争で死ぬのは若者だ。そして、年金はいずれ枯渇する。とにもかくにも、若者の未来は老人たちに奪われている。若者を死に追いやり、そして老人を生きながらえさせようとしている。
 マキャベリの問いはおそらくこうだ。「世の中の老人の無駄な生が、若者の未来を奪っている。そして、若者がその身を未来に置いたとき絶望が迫っているとしたら、そして、そのころ老人はすでにこの世にいないとしたら、私たちはどちらの生を選択するべきだろうか。」
 そして、忘れてはならない現実は、一定の老人が死を願っていることだ。死そのものを願っているわけではない。人工的な生を拒否しているのだ。そのことを知った時に人々は答えを見出すだろう。しかし、そのことを知るには自分が老人になるまで待たなければならない。佐久間は老人になる前にその現実を知った。そのことで見出した答えが、このドラマの結末で語られるのだ。

 このドラマで佐久間は積極的に老人を減らそうとたくらむ、つまり老人の生きる権利を不当に奪おうとする悪人のように描いている。そして、「自由死法」という法案を掲げる。しかし、本当の目的は違っていた。老人を減らすためではない。人々を人工的な生の苦しみから救うために考え抜いたものなのだ。ピンピン生きてぽっくり死ぬ。それを人工的に実現しようとした。それを阻んだのは、頭だけで物事を実現しようとする医者の過剰な正義感であったのだ。
 この問題は今に始まったものではない。米国の一部では安楽死法が成立していることから分かるように、過去からそして世界中で問題視されてきたのだ。そのことに関連する過去に書いた記事を紹介して締めくくりたい。

・幸せな死に方があってもいいじゃないか 『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 中村仁一著

・死に時をわきまえよう 『日本人の死に時』 久坂部羊著

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そこまでいって委員会的問題作 『破裂』 NHK

破裂〈上〉 (幻冬舎文庫)

 最近NHKのやらせ問題で何かと物議をかもしているようだ。しかしこの際、その問題はわきにおいてく。ここではあえて、NHKが『破裂』という問題作をドラマ化したことに対して、私は称賛したいのだ。ある意味これは、国民の議論を誘うべき最も身近な問題であり、むしろ安保法案よりも優先されるべきではないかと思えるほどだ。しかし、実際にはそれほど話題になることなく、実は来週最終回を迎えることになるらしい。やや残念ではあるが、問題からつねに目を背けがちな日本の現実を考えるならやむをえまい。

 さて、この『破裂』の原作は久坂部羊氏が2004年に小説として出版したものだ。私も3年ほど前にこの小説を読んだ感想を本ブログに載せていた。なので、小説のストーリーについては、そちらを参照してほしい。そして、NHKドラマの『破裂』は、小説に対して大幅に脚色を加えているようだ。原作の方は登場人物が多くストーリーもやや複雑なため、ドラマの尺には収まらなかったのだろうと思う。それでも現在の少子高齢化を軸に、医療問題を絡めるという核心の部分は変わっていない。そういえば、麻生太郎がかつて「お年寄りが安心して死ねるようにしなければ…」と語り物議をかもしたことがあったが、そのことを考えるとこの『破裂』というドラマの中身もあながち非現実的とはいいがたくなるのだ。

百年法 (上) (角川文庫)

 このドラマでは、最終回でどのような終結を迎えるのだろうか。原作のストーリーをすっかり忘れてしまったおかげで、今から実に楽しみではある。それにしても、日本人はもともと心臓が丈夫らしい。医学の進歩により、さらに強靭な心臓を持てるようなり、そして老人が死ねなくなったら、いったい日本どうなってしまうのだろうか。
 その答えは実は『百年法』という別な小説に書いている。もしもドラマをみて、その先の日本が気になった人は、この『百年法』を一読することをおすすめしたい。

※NHKドラマ『破裂』は土曜日夜10:00からの放送となっているようです。

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戦争のリアルⅡ、『戦争するってどんなこと?』 C・ダグラス・ラミス著

 いま、日本で安全保障に関する議論が膾炙されている。「抑止力」「国民を守る」「積極的平和」など、もったいぶった理由をつけ、そして、しまいには平和維持のため、などと真逆のことを述べるものも多くなってきた。憲法違反かそうではないのか、何が武力行使にあたるのか。どうなったら自衛隊は武力を行使できるのか。
 しかし、ここに欠落した議論があった。それは、「戦争とは何か」ということだ。結局、現実的な戦争については誰も述べなかったのだ。当然なのかもしれない。今や戦争体験者は殆ど日本の国土から消え去ってしまっているのだ。戦後生まれの政治家が、戦争のリアリティを語れないのは当然なのである。
 そこには大きな違和感があった。だからこそ、多くの国民は安保法案に反対した。その違和感はつまり、安保法案が戦争をより身近なものにすると感じたからだろう。多く安保法案反対者は戦争を忌避するべきものと感じている。そして、安保法案賛成派は、戦争は人類として避けられないものと考えているのかもしれない。しかし、双方とも、本当の戦争を知っているのだろうか。本当の戦争について知らないから議論がかみ合わないのではないか。戦争するとははたしてどういうことなのか。それを知るために私はこの本を読んでみた。

 この本では、まず戦争の定義について語られる。
※この本は中学生に対する講義を書き下ろした形式となっており、本文中のダッシュ“───”以降は、学生の質問となっている。

12ページ
 戦争の物理的な定義にかんしては、あんまり議論がありません。戦争とは組織同士の集団暴力だということは、だいたいみんなが認める定義です。ところが、戦争を法的に定義しようとすると、意見が分かれます。集団暴力でも合法でもなければ戦争とは呼ばないで、暴動、テロ、犯罪行為と呼ぶ、という考え方もあります。合法でなくても行動が同じなら戦争だという考え方もあります。誰もが賛成する法的な戦争の定義はありません。
 ところで、日本国憲法の第9条には「国の交戦権は、これを認めない」と書いてあります。交戦権とは、国が戦場で人を殺し、財産を破壊する権利です。
───人を殺し、財産を破壊する権利?
 はい、世界的に認められている権利です。この権利の背景にあるのは、「近代国民国家は合法的に暴力を使う権利を独占しようとしている組織である」という考え方です。これは近代国家、つまり今世界中にある国々の定義の一つです。

 実の所、自衛権は日本国憲法でも認められているが、交戦権は認められていないというのは自明の事なのだが、一部の人々にとってこれは矛盾していると捉えられているようだ。しかし、自衛権と交戦権は全く異なる。そのことは本書を読むとわかってくる。

13ページ
 近代国家が合法的に持つ暴力は3つあります。警察権と刑罰権と交戦権です。
 警察権によって、警察官はピストルを持っている場合によって人を狙って撃っても、任務として行った場合は合法です。容疑者を捕まえるために銀行強盗を撃っても、犯罪にはなりません。国家が警察という、人に対して暴力を使う権利を持っているからです。
 近代国家が持つ2つめの合法的な暴力は刑罰権です。国家は裁判所で有罪判決が出た人を監禁することができます。ふつうは人を監禁すると犯罪になりますが、裁判所が有罪と認めた人を国家が刑務所に監禁するのは刑罰です。数年間閉じ込めて外に出さない(これも暴力です)権利が国家に認められているからです。国によっては、監禁するだけではなく、殺すこともできます。裁判で死刑判決が出た人を殺す権利を国家に認めている場合です。死刑を廃止した国は多いですが、日本は廃止していません。日本では刑罰として国家が人を殺しても、殺人にはなりません。
 3つめは交戦権で、戦場で人を殺す権利です。国にこの権利があれば、兵士が戦争で人を殺しても、それは殺人罪になりません。けれども、日本国憲法第9条には、「交戦権は、これを認めない」と書いてあります。

 「集団的自衛権は国際法によって認められている。当然、日本も集団的自衛権を持っていて、今は法律上それを行使しないだけだ。」
 かつて政府も一部の評論家もそのように語っていた。しかし、集団的自衛権の必要性について、同盟国を守るためと語るばかりで、具体的な話になると一向にらちが明かない。当然である。集団的自衛権は交戦権を前提としているのだ。実際に戦闘になったら、交戦規程(自衛隊では部隊行動基準)に則って相手方に攻撃を加えるのである。これは交戦権の行使以外の何物でもない。ここを語ると、安保法制は憲法違反であることが明白になる。だから新三要件などとあいまいなもので議論をとどめていたのかもしれない。

 日本は憲法9条によって交戦権を禁止している。そのために、軍隊を持たずに自衛隊(警察予備隊)という、重火器を使用する警察部隊を擁立したのだ。この矛盾した組織は、装備とその役務に乖離がありすぎる。ここが安保法制を分かりにくいものにしている。政府としては何とかして自衛隊を軍隊と同じ役務につかせたい。そうして、アメリカと同じ部隊で作戦行動に参加させたいのだ。これは、アメリカ側の要請なのだろう。しかし、軍隊ではない自衛隊の行動は、警察権の及ぶ範囲でなければ武力が使えない。なぜなら、日本には軍法も軍法裁判所もないからだ。
 日本の自衛隊は軍隊ではない。反論があるだろうか。端的に述べるなら、自衛隊は人を殺すという本来の軍隊の目的を所持していない。人を殺す訓練を受けていない者が戦場に入り込めば、どのような悲惨な事態になるか、戦争を知らない政治家の想像力は及びもしなかったようだ。
 この本の著者であるダグラス・ラミスは、軍隊というものについて、その実体験から次のように語っている。

32ページ
 兵士の仕事は敵を殺すことです。
 日本では戦争というと、国のために死ぬとか、命をかけるとかのイメージが浮かんでくるかもしれません。第二次世界大戦のときの太平洋戦争でたくさんの兵士が亡くなりましたから、そういう歴史的な体験の影響だと思います。けれども、死ぬのは兵士の仕事ではありません。ぼくは3年間海兵隊で任務についていて、予備役の期間も入れれば10年間になりますが、その間死ぬ訓練をしたことはいちどもありません。死ぬとすれば、それは失敗で、訓練が足りなかったか運が悪かったということです。
 ほかの組織と違って軍の特徴は人を殺すことです。ですから兵士の仕事は殺すことで、もちろん、反対に相手に殺されるかもしれません。
 人は人を殺すことに対して心の中に抵抗があります。普通の社会で育てられた人なら、簡単には人を殺せません。相手を「殺せ」と言われたからといって、なかなかできるものではないのです。ですから、兵士の訓練では、死ぬかもしれないという恐怖を愛国心などで乗り越えるようにする訓練とともに、相手を殺せるように、殺すことに対する抵抗を乗り越えるための訓練をします。この訓練を受けることから、兵士の仕事がはじまります。

 この後に本書では、人にとって人を殺すことがいかに難しいことであるか。そして、戦争において民間人を殺さないことがどれだけ困難であるかが語られる。もし今後、大きな戦争となった時は、大量破壊兵器によって多くの民間人が殺されることになる。それは戦争というゲームに参加した時点で確定されたことなのかもしれない。

51ページ
 当然ですが、都市への無差別空襲の犠牲者は殆どが一般の人々です。  そして広島、長崎へ原爆が投下されました。究極の無差別殺人です。
 現在に至るまで20世紀の戦争は、非戦闘員、一般の人々を兵士よりもずっと多く殺しています。戦争の死傷者の数を知ることは非常に難しいです。戦死者の10%だけが兵士で、90%が民間人だとよく言われますが、その数字を疑う人もいます。第二次世界大戦による戦死者は5000万から8000万人で、そのうち民間人の数は3800万から5500万人という推定があります(この数字には餓死と病気による戦死も入っています)。それなら68~75%が民間人になります。

 よく、戦争反対を唱えると「では中国に侵略されても良いのか」「日本国民が蹂躙されても見過ごすのか」など、しまいには「お花畑」な思考などと言い出す。しかし、戦争の現実を観ずに、勇ましさや強さを自分に投影してあたかもそれが人々を被害から守る唯一の手段であるように語るのは、まさに戦争ロマンチシズムと言わざるを得ない。
 著者はこののちに、多角的に戦争の現実を語る。大量殺戮兵器、軍需産業に支えられる経済、難民の発生、テロとの戦いは戦争なのか、戦争によってもたらされる人類史上最大の不本意や理不尽を語り、非暴力抵抗が決して不可能な行動ではなく、現代社会だからこそ実現可能な、むしろ人間的なあり方なのだと語る。

 かつてフランス革命を橋頭保とし、民主主義は世界中に広まっている。その後、民主主義国を謳う先進国は植民地を作り、経済的な繁栄を求めてきた。それは武力によってである。やがて、他国の国民を武力で支配するという植民地は地球上から消えて、現在はその地域の利権を獲得するために武力が行使されている。
 これは、武力に守られた権力構造が、地域という狭い範囲から、国家間という広い範囲に拡張されたに過ぎない。民主主義による武力行使は、国家内での武力対立を平定する手段としてのみ有効に機能するが、国と国との間に発生する紛争に対しては全く無効なのである。つまり、国家間民主主義はいまだに成立していない。だからこそ、話し合いで解決しようとする前に、武力を行使しようとするのであり、国際法では交戦権が認められているのだ。
 遠い遠い人類の未来の中で、いずれ国際的な民主主義が確立される時が来るのだろうか。物事は武力でなく話し合いによって解決されるべきである、という日本国憲法の理念が、世界の当然の権利と認めれられる時がいつか来るのか。
 この本は、現在の人類が実はまだまだ未熟であり、民主主義国の国民が独裁政権を持つ国を嗤える状態ではないことがよくわかる本なのだ。果たして、私たち日本人は、人類のこの遠い先の世代に受け継ぐべき、あるいはそのころには常識となっている平和の理念を、ここで放棄しても良いものだろうか。おそらく、日本人は終戦当時のように、もう一度間違った選択をしてしまった事に、苛まれるのではないだろうか。

28ページ
 たしかに、日本国憲法は世界でも珍しい憲法です。交戦権を認めないという言葉はほかの国の憲法にはないと思います。軍隊を持たない国はあります。たとえば、コスタリカは軍隊を持っていませんが、憲法に交戦権を持っていないとは書いてありません。ほかにも軍隊を持たない国はあります。小さい国は軍隊を作っても勝てませんから、軍隊があってもしょうがないのです。でも、交戦権という権利を放棄している国は珍しいのです。
 ですから、日本の平和憲法を非常識だという人もいます。その通りです。では、常識はどういう世界をつくったでしょうか。
 すべての国家には正統な暴力の権利として交戦権がある、という考え方は20世紀の歴史をつくりました。それは、国家の暴力によって殺された人が史上最大の世紀となりました。新記録です。これほど人々が政府によって殺されたことは、歴史の記録が始まってからありませんでした。昔から戦争はありましたが、20世紀は人を殺す技術がどんどん進んで大量破壊兵器によってけた外れに多くの人が殺されました。また、軍需産業がこれほど巨大化したのも20世紀でした。

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『ビジネス実務法務検定2級』を受けてきました

 だいぶん以前のことではあるが、昨年末、つまり2014年12月7日に「ビジネス実務法務検2級(R)検定試験」なるものを受験してきた。この資格、おそらく商工会議所としては簿記検定に続く資格試験として定着させたいところなのであろうが、あまり知名度はないようだ。今回は36回目という歴史の浅さもあるかもしれない。そもそも受験者の人数も少なく、ゆえに私の受験場所は武蔵野商工会議所のビルの中であった。
 実際の受験人数は一昨年(2013年)の実績で、14,173人、合格者数は6,469人、合格率は45.6%である。つまり受験者の半数近くが合格する試験なのである。最初はこのデータをみて、思いっきり高をくくっていた。しかし、実際に受験勉強を始めると、これはなかなか手ごわい試験なのである。
 問題は、問題自体の難易度ではない。とにかく読み解くための文章量が多いのだ。速読ができる人には、この試験は大いに有利かも知れない。しかし、普通のスピードで読んでいては、おそらく回答時間を使いきってしまうはずだ。
 設問の数量は、全部で40問。その40問にはそれぞれ5つの選択肢がある。個々の選択肢に対して正誤を判断しなければならない。したがって、試験にあたっては、200の文章を読み進みながら正誤の判断を繰り返すことになる。
 制限時間は2時間、1文につき持ち時間は36秒である。一般的な読書スピードは1分間に800文字と言われている。36秒あれば400文字くらいは読めるだろう。実際の問題文は一つの選択肢が150文字程度で構成されている。なんだか余裕があるようにも思えるが、考えながら読むからそれなりに時間がかかる。繰り返し読まなければ理解できないものあったりする。だから時間が足りなくなるのだ。

 ちなみに、今回私が回答に要した時間は105分。そして、マークシート回答用紙への転記に5分かかり、残った時間は15分だった。残りの10分間で見直しを行い、1問修正をした。この修正が功を奏して、自己採点では70点である。転記にミスがければ合格かも知れないが、転記ミスを確認する時間がなかったから自信がない。後は座して待つのみといったところか。

 さて、この資格試験の学習方法は実にオーソドックスなものとなる。用意するのは過去問題集と参考書をそれぞれ一冊でよい。問題集はネイティブに中央経済社が発行する「ビジネス実務法務検定試験 2級公式問題集」が良いとされている。この本には過去3回分の問題と、カテゴリーごとの独自問題集が掲載されている。
 参考書の方は、もし論点をネットで調べるつもりなら、なくても大丈夫。しかし、法律は複雑だ。単に問題を解いて不明な点を場当たり的に消化していたのでは、その周辺からの出題には対応できなくなってしまう。だから、やはり参考書があったほうが良い。先の公式問題集にはセットで販売されている参考書への参照先が書かれている。本来であれば、公式問題集と参考書をセットで購入するのがよい。

 やはり問題集だけでは心許ない。そこで私は、参考書を追加買いすることにした。書店で公式テキストを他社のテキストと見比べてみた。と、どうも買うつもりだった公式テキストは見栄えがしない。如何にも読みづらい。イラストなどはほとんどない。隣にあった公式ではないテキストと開いてみるとどうやらこちらの方が分かりやすそうであった。ということで、私は翔泳社の『ビジネス実務法務検定試験(R)2級 完全合格テキスト』を購入することにした。
 実はこの参考書を購入した理由はもう一つあった。リアルの書店では買わずにAmazonで調べると、なんと珍しいことにKindle版が売られていたのだ。しかも値段は紙版の半額である。Amazonサイトに一件だけついていたコメントには「この本は読みづらくイラストもない」と書いてあったが、これは間違いだ。少なくとも私が書店で他の参考書と比べた限りでは最も読みやすそうだった。もちろん即決で購入した。
 そもそも分厚い参考書を持ち歩くのは辛い。それに、この参考書を辞書的に使うつもりはなく、読み物として読んでみたかったのだ。その方が立体的に知識を習得できる。この本はうまくまとめられていて、読んでいて飽きることはなかった。イラストも必要十分に掲載されている。電子書籍なら、試験後もいつでも取り出して読むことができる。いわゆる実務上の参考書としてはすこぶる良い。

 もちろん、電子書籍であることによる欠点もある。この唯一のKindle版参考書はテキストデータを持っていないのだ。もちろんリンク情報も掲載されていなければ、重要箇所にマーキングしたり、通常のKindleでは可能な栞をつけることもできない。コメントを追記することも、メモをつけることもできないのだ。それでも、iPadに入れて常に持ち歩くことができる利点は大きい。受験の時のみ、一時しか使わないということであれば紙版で十分であるが、今後も常に持ち歩き必要な時に参照できるということを考えれば、Kindle版の方が利用価値がはるかに大きいのだ。

 結論を述べると、ビジネス実務法務検定2級を受けるなら、参考書としては翔泳社のものがおすすめである。ただし一点だけ非常に残念なことがある。それは、Kindle版の値段がなぜか半額ではなく紙版とほぼ同じ値段になってしまったことだ。そして、最新版の2015年版はKindle版が出版されるのかわからないのである。いつか最新のKindle版が再び半額で販売されることを願ってやまない。

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Unixを知る人は読むべき近未来小説 『デーモン』 ダニエル・スアレース著

 デーモン (Daemon) は、UNIXなどのマルチタスクオペレーティングシステム (OS) においてバックグラウンドプロセスとして動作するプログラムを意味する。ユーザーが直接対話的に制御するプログラムではない。

 典型的なデーモンプロセス名は名前の最後尾に "d" が付く。例えば、syslogd はシステムログを扱うデーモン、sshd は外からのSSH接続要求を受け付けるデーモンである。(Wikipediaより)

 FreeBSDのマスコットは実にかわいらしい悪魔である。なぜBSDのマスコットが悪魔くんなのか。それがUNIXのデーモンプロセスからとられていることは明らかだ。しかし、実はもともとのDaemonには別な意味がある。
 もともとのdaemon(守護神)とはギリシャ神話に登場し、神々が煩わされたくないと考えた雑事を処理した存在である。同様に、コンピュータのデーモンも、ユーザーが煩わされたくないタスクをバックグラウンドで実行する。

Freebsdlogo_2  さて、この小説『デーモン』が意味するは悪魔なのか、あるいは守護神を意味しているのか。実はこの小説を読み終わった今も定かではない。スアレースは全く明らかにしないままプッツリと筆を置いているのだ。そして、スアレースの処女小説『デーモン』(2009年)は『Freedom』へと続く。この恐ろしくもリアルなストーリーは、Freedomで完結を迎えるらしい。ところが『Freedom』はまだ邦訳されていなかったりする。どうやらこの小説は日本ではそれほど売れなかったようだ。

 この小説を一言でいうと、1980年代に流行ったサイバーパンクの現代版といったところだろう(サイバーパンクが不明な方はWikipediaに頼ってほしい)。その草分け的小説であるウィリアム・ギブソン『ニュー・ロマンサー』を読んだことがある方はイメージしやすいはずだ。
 当時の近未来SF『ニュー・ロマンサー』と比較すると、『デーモン』はより現実に近い。物語に登場するテクノロジーはほとんど実現しているものであり、そのコアとなるのがMMORPGという一部のゲーマーにとっては現実に存在するサイバー空間であることからも、よりリアルな悲劇としてこの小説に没入できるに違いない。
 例えばイスラム国はyoutubeで兵士を募集する。この小説ではデーモンがMMORPGの仮想空間で兵士を募集する。ドローンあるいはグーグルグラスやグーグルカーに近いアイテムが登場するのも見逃せない。

 翻訳者の上野氏はあとがきには映画化に向けて版権を販売済みと書いている。その後映画化の話は消えてしまったのだろうか。この本を読みながらイメージが難しい部分が多かっただけに非常に残念だ。小説を読むときのイメージ化というは人それぞれ違うはずだ。この小説が現実のIT技術に裏打ちされたものであることを除けば、ストーリーとしてはただのSF小説になってしまう。
 そもそも、IT技術から縁遠い人にとっては、なぜDaemonプロセスが人々の恐怖となり得るのかを理解するのは困難だろうと思う。逆にUNIXを理解している人々にとって、そしてMMORPGの経験があるゲーマーにとっては、イメージしやすいどころか、予言的小説に思えるかもしれない。

 『デーモン』の出版からすでに月日がたち、スアレースが『KILL Decision』というさらに現実に近い小説を書いている。にもかかわらず、日本ではあまり話題になっていないようだ。実はMITメディアラボの伊藤穣一氏が推奨したのはこの『KILL Decision』である。しかしこちらは邦訳がまだ出版されていない。しかたがなく、英文を読めない口惜しさを噛みしめながら、私が読んだのがこの『デーモン』なのだ。
 この小説を書いているスアレースはITコンサルタントの実務経験を持つ。だからこそ現実の恐怖を小説の中から呼び起こせる。『Kill Decision』の邦訳出版が待ち遠しい。

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カイゼル髭は妥協しない 『ヒゲのウヰスキー誕生す』 川又一英著

 朝ドラ『マッサン』が今面白い。といっても、欠かさず見ている、ということではない。画面からたまたまドラマが流れていると見入ってしまう、という程度である。この朝ドラはどうにも誇張しているシーンや事実と違うのではないかと思わせる台詞回しが多いのだ。そもそも、画面の中では、竹鶴(ニッカウヰスキー創業者)を亀山、鳥井(サントリー創業者)を鴨井などと変名しているのだからなおさらである。
 これはNHKの番組上しようがないことではある。「赤玉ポートワイン」も「太陽ワイン」と変えている。古い人がこのドラマを見れば、思わずこう説明したくなるだろう。「昔は赤玉ポートワインというのがあって、まるでジュースのように甘ったるかったのだよ。当時の日本人は本当のワインの味を知らずに、美味しいとい思って飲んでいたんだよ」と。実は、まがい物を有難がって飲んでいた日本人に、本当の洋酒の味を知らしめたのが、竹鶴という一人の男であり、竹鶴テイストであったのだ。
 そこで、やはり本当の竹鶴ストーリーを知りたくなる。竹鶴ストーリーをドキュメントタッチに描いた小説はないものか。外に出て、書店で探すと平台に積まれたこの本を見つけた。『ヒゲのウヰスキー誕生す』というタイトルだ。まさにニッカウヰスキーといえばその代表作はヒゲの男がラベルになっている『ブラックニッカ』である。ウヰスキーのウンチクを語れたない私にとってのスタンダードウヰスキーでもある。『ブラックニッカ』をチビリチビリとやりながら、その誕生秘話を布団の上にあぐらをかきながら読んでみた。
 本のページは、著者が取材のために赴いたスコットランドの車窓から始まるのだ。なるほど、この本は事実を重視しているらしい。そして、著者がかのスコットランドの大地に立ち、芳醇なウィスキーを口にしてから、本題である竹鶴ストーリーへと移っていく。
 竹鶴が大阪住吉の摂津酒精醸造所の門をくぐる。まだ卒業試験を終えたばかりの学生である。学生でありながら強引に、竹鶴は本物の洋酒を造りたいと言い、就職を決めてしまうのだ。
 この本を読み進むと、日本のウヰスキーがなぜ世界の頂点立ち得たのか、そして、サントリーとニッカウヰスキーとの複雑な関係がつぶさにわかって面白い。日本に本格ウヰスキーを誕生させるには、相当な苦労を要することであったのだ。人間の子供が母親の胎内で育ち、その生命が身を結ぶまで長い月日がかかるのと同様に、本格ウヰスキーの産みの苦しみは相当なものである。
 目の前にある琥珀色のウヰスキーの香りを嗅ぎたくなった。竹鶴の偉大さとその執念に感謝しつつ、またチビリと口の中で液体を転がす。そのラベルの男のカイゼル髭を見入りながら、なるほどこれは執念の味だと思うのである。

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本当は他人に感謝されたいのでは? 『他人を攻撃せずにはいられない人』 片田珠美著

 一言で言うなら、読んでいて気持ち悪い本なのである。最初から最後まで、誰がどのように攻撃し、どのように貶められ、そしてどう対処すれば良かったか、という場面が延々と続くのである。ドロドロのぐちゃぐちゃなのだ。もう少し統計的な数値や、年齢あるいは性別などによる相関関係みたいなものを検証できなかったのだろうか、と思ってしまう。残念ながらこの本では攻撃的な人々の心理の裏にあるものにはあまり触れていない。
 同様の本には『他人を見下す若者達』(2006年、速水敏彦著)がある。見下すのも攻撃するのも、根に持っているものは同じ支配欲もしくは自己実現欲求であろう。結局は自分の人生に意義を見出し、「私は確かにここに居るのだ」という存在の形を人々に受け入れてもらいたいだけではないのだろうか。

 つまり、彼らのその表現が通常とは異なっているのだ。本来は他人を見下すのではなく自らが成功を修めるべきであろうし、他人を攻撃するのではなく他人から学ぶべきなのである。
 おそらくその奥底にあるのは、他人よりも楽をしたいということ、または他人よりも楽な人生こそが成功である、という思想にあるのかも知れない。これは、2000年ごろからブームになったビジネス書の乱発からも伺える。「楽して〜できる」「簡単に〜できる」など、苦労せずにお金を儲けることがあたかも成功の条件であるかのように私たちは刷り込まれてきた。そのような短絡的な成功志向が、人一倍努力して勝ち取る成功ではなく、人を貶めて相対的に自らに権威付けをする成功に、人々を駆り立てているのかもしれない。

 しかし、この本、ドロドロのぐちゃぐちゃがまた何とも人を惹きつけるのであろう。どうしても、そのぐちゃぐちゃの中に一点の光明や、何か美しいものが隠れていやしないかと、目を凝らしたくなるのだ。それは時に攻撃的になってしまう自分を肯定するためであるのかもしれない。かくいう私は、他人が自分よりも楽をしていると思うたびに、ついつい腹を立てたりしている。冷静に考えるなら、人のために苦労をしても、その事を楽しめるのなら本来はその人生は成功なのではないだろうか。少なくとも、人に頼られ感謝される数を成功の指標にしなければ、この世の中はなんとも息苦しいものになるに違いないと思いながら、おしまいのページを読み終えたのである。

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